遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

日本会議の研究/菅野完

イメージ 1

日本会議の研究  菅野 完   (扶桑社新書)

菅野完の「日本会議の研究」は、今年度の大宅壮一ノンフィクション賞の候補作になり、新たに設けられたネットでの投票による読者賞に輝いた。候補作のうちで読者に最も支持された1冊になったのだが、楽しくはないが面白い有意義な時間が持てた。日本会議のことは事前に50%くらいは知っているつもりだったが、読後そのことを追認できた。

以下は、長崎大学民族派の学生を組織して学内選挙で勝利し新左翼からキャンバスを解放した椛島有三が、まだ運動を始めたころの話。

 「てめえら、どういう考えでこんなビラ配るんだ!!」バシッと言う平手打ちとともに椛島さんの身体が横倒しになった。
 今朝まで徹夜して作った二千枚のビラがバラバラとなり踏みにじられる。昭和41年7月3日、長崎大学正門前でのことである。
 この日のことを僕は永久に忘れない。なぜなら、この事件こそが、僕等をして学園正常化に走らしめた直接の原因だからである。

これは、椛島とともに長崎の反左翼運動を展開した安東巌の文章である。「生長の家」の谷口雅春を信奉する学生がこの時から活動家に変身した瞬間である。

日本会議は、この安東巌と椛島雄三の長崎大学学生運動家が中心になって続けてきた運動が結実した副産物である。

長崎大学新左翼の学生の平手打ちから生まれ、それから50年かけてゆっくり成長した日本会議が、安倍晋三とその周辺を使ってこの美しい国に強烈な平手打ちをくらわしているのは、なんとも実に皮肉なことである。

貧しい生まれの安東は青年の頃、難病の床にあって、自分の身体が治らないのは薬を届けてくれない母のせいだと、母親を恨んだという。しかし偶然に谷口雅春の教えに接し、病気が回復したことで信仰に深く興味を持ったという。安東はおそらく、信仰の効果ではなく偶然に健康を取り戻したのだろうが、ともかくその後、母親への恨みは消え「生長の家」活動にのめりこんでいったという。

美しい国日本」にしなければならないのに、いまだに悲しい国から抜け出せない日本。今の悲しくて貧しい日本を見て、安東や椛島はそれでいいと思っているのだろうか。彼らは、世間を恨むルサンチマンかもしれないが、安東が若い日に母を許したように、この貧しい国に住む多くの貧しい人たちを許そうとはしないのだろうか。政治家や官僚や学者をはじめとした、思考不能で出世主義の小役人のような日本会議の同調者の呪縛を解き放つだけで事足りると思うのだが、脳内は古生代のままの彼らには無理なのだろうか。

著者の菅野は、「もの書きとして、少しでも売れるものを書くことを至上命題に、なおかつザラザラして読者を嫌な気持ちにさせるようなノンフィクションを書き続けていきたいと思っている」と大宅賞の受賞スピーチで語ったという。彼はまだ若いし、弱者に向ける目は暖かいし、読者賞を取れるある種のカリスマ性もある。若い人たち向けにザラザラしたものを書き続けてほしいものだ。