遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

天井桟敷の人々/マルセル・カルネ

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天井桟敷の人々」


製作1945年(日本での初上映1952年)


私のブログ満5歳で、6年目に入った第一弾は、映画、それも名作中の名作のご紹介で、

キネ旬のオールタイムベストでは、上位の常連「天井桟敷の人々」。

1980年頃のオールタイムベストで1位だったので、

オールタイムで1位ってどんな映画??という感じで、

たしかTVで観たと思うのだが、うちの奥さんは私と劇場で観た記憶があるという。


その後のオールタイムベストでは、95年では3位、

99年では11位、去年の2009年版では10位で、

相変わらず上位に名を連ねている。


ピエロのメイクをほどこすと、ちまちました表情になってしまうジャン=ルイ・バロー

この主演男優のスチール写真を見て、まず日本の女子はまず食指を動かさないと思う。


この俳優がなぜ、この世にも高名な作品の主演を務めているのか、

そのたおやかでしなやかで優美な動きを見れば理解できよう。


舞台は19世紀半ば、パリの犯罪大通りの雑踏の中で、

スリの疑いをかけられた、アルレッティ扮する妖艶な中年女性ガランス。

無口で出来の悪い役者だと、父親から罵倒され続けているバロー扮するバティストは、

大通りに面した小さな舞台で、父親と劇場の客寄せをしていて、

スリ事件の一部始終を、舞台上から目撃していた。

もう逃げてしまった真犯人がどのようにスリを働いたかを、即興のパントマイムで演じるバティスト。

おそらく映画史上、ああいうパントマイムを演じられたのは、

チャップリンとバローの二人だけだろうと思う。


バティストの見事なパントマイムで、身の潔白を証明してもらったガランスは、

彼に微笑みと投げキスを贈って、その場を離れ雑踏の中に消えていくのであった。

そのシーンから、バティストのガランスに恋焦がれるこの物語が始まるのである。

この映画は、父親から決して認められない青年バティストの、

夢と希望の物語でもある。


全編にちりばめられたセリフの素晴らしさが、まず目を引く。

洒脱でカッコよくて深い意味のある、詩を寄せ集めたようなセリフは、

この物語の登場人物に差をつけないで、全員に語らせるところが偉い。

売れないパントマイム役者や、きわどい見世物小屋で裸で稼いでいた女や、

詩人の姿を借りた大悪党や、パントマイムを馬鹿にしたシェークスピア役者や、

シェークスピア劇を低俗で下品とバカにしている伯爵や、

いつでも恋する安宿の女主人や、3人寄って一人前の劇作家たちや、

目の見えない物乞いなどに、公平に、詩人のように語らせるのである。


それに応えられる役者たちの層の厚さと、マルセル・カルネの演出、

さすがはモリエールを生んだ国だけのことはある。

実に個性的な役者が、ジャック・プレヴェールのセリフを携えてとっかえひっかえ登場し、

ぴかりと光って、お後がよろしいようでと、次の出番まで姿を消していく。


劇中劇もたっぷり素晴らしいものを見せてくれる、

まるで私たちが天井桟敷(最上階のもっとも安価な立見席)に、

置かれたような錯覚にとらわれる。

また、オープンセットとは思えないような、「犯罪通り」の賑やかさと人の多さ、

通りに面した劇場の客席も、いつも満員札止めの盛況ぶり。

カルネは、通りや劇場内のおびただしい数の群衆の演出を、どのようにおこなったのだろう。

そういう意味では、恋愛映画にしてある種のスペクタクル映画の醍醐味も味わえるのである。


天井桟敷の人々」は、

一部「犯罪大通り」と二部「白い男」に分かれた、190分にもおよぶ大長編だが、

「恋なんて簡単よ」と言うガランスの名セリフが、私の心までをもひきつけ、

ナチの占領政権下にあって、フランスの威信を示した渾身の一作でもあり、

私には退屈するところはひとつもなかったのであった。