京都は相国寺(しょうこくじ)承天閣美術館で開催中の、「若冲展 釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会」に行く。
伊藤若冲は、京都は錦の青物問屋を四十歳で弟に譲り、独学で続けてきた絵の道に進んだ。
夢だった絵描きになった。
独学時代には、中国の古画など古典を模写するために、相国寺に通い詰めた。
家業を弟に譲った後は、画業にどっぷりかと思いきや、かねて持っていた禅の世界への関心から、相国寺で得度し、実に十余年をかけて寺に寄進するために大作を手がける。
時は経ち、明治初年の廃仏毀釈の悲しい歴史のなかで、この若冲の大作のうち動植綵絵(三十幅)が、明治22年に宮内庁に献上され、それに対する宮内庁からの1万円で、相国寺は現在の広大な境内を維持できたのだという。
その若冲の大作というのが、「釈迦三尊像(三幅)と動植綵絵(三十幅)」である。
このたび一時的に動植綵絵の三十幅総てが、120年ぶりに相国寺に里帰りしたわけである。
会場には正面に「釈迦三尊像(三幅)」が鎮座ましまし、その両側に向かい合った十五幅ずつの「動植綵絵」がずらりと並んでいた。
かつてはこの三十三幅が毎年一般公開されていたのだという。
120年前に参拝した見学者と、いまその総てを目の当たりにする見学者達との思い入れは、違ったものだろうと思う。
絵が囲む「コ」の字方の広いフロアには、ため息交じりの幸せな見学者が山のように群れていた。
見学者は、ご想像通りに、7割がたが女性である。
当時としては、アバンギャルドな異端に近いところに居た若冲の絵は、ぎりぎりのところでグロテスクの領域の手前で踏ん張っている。
その危ういところが、私には非常にモダンに見える。
鹿苑寺(金閣寺)の若冲の襖絵(水墨画)も同時出品されていたが、たとえば「葡萄図」の蔓がクルクル巻いている様子や、襖からはみ出してそびえる「芭蕉」は、実にモダンな面持ちのある作品なのである。
若冲人気は、マニアックなファンやメディアが支えているのかもしれないが、狩野派がなんぼのもんじゃい、という凛としたパワーが、その人気の秘密なのかもしれない。
見学後購入した図録は、無人島にもって行く1冊となる。
画像は、動植綵絵「群鶏図」。 会期は無休で2007年6月3日までである。