遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

津和野「青野林道より」/安野光雅

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もう10年近く前になるが、中学を卒業した娘と二人旅をしたことがある。
車で3泊4日の旅、萩、津和野、岩国、厳島神社、広島、倉敷など、
私のしたい中国地方を巡る旅に、娘を連れて行った。

萩と津和野は初めてだったのだが、
津和野では完成間もなかった安野光雅美術館へも訪問。
http://www.town.tsuwano.lg.jp/anbi/anbi.html

さかのぼって、私の小学生時代、50年近く前の話。
「夏休みクラブ」といったようなタイトルだったか、夏休みにスポットで放送された小学生向け番組に、
話は下手でマスクもいまいちのおじさんがなぜか進行役として出演していて、
その独特の風貌だけが記憶に残っていた。

成人して、そのおじさんの顔と名前と生業が認識できた。彼が安野光雅
働き始めた頃の職場に、アサヒグラフが届けられていて、
そのなかには、安野の作品とエッセイが毎号掲載されていた。
私は、職場のまだ真新しいアサヒグラフが廃棄されるのを待って、
家に持ち帰っていたこともあった。安野の絵が欲しくて。

アサヒグラフに掲載されていたのは、主にヨーロッパの風景画だったと記憶している。
都市だろうと田舎だろうと、ヨーロッパはどこを切り取っても絵になるところには違いがなかったが、
安野の水彩画のように風景を切り取りたいものだと、今もその思いを断ち切れない私。

その後、週刊朝日の名物連載、司馬遼太郎の「街道をゆく」では、
強烈な挿絵を描かれていた須田剋太逝去の後、しなやかな挿絵を安野が担当した。
司馬が亡くなるまで5年の間、日本各地を歩いて司馬の話しを聞いて日本を描いて、
安野は日本のよさにはじめて気がついたと言う。

先日、NHKの日曜美術館で安野にご対面。
街道をゆく」で、日本の良さに目覚めた話しを披露していた。
いま、ふるさとの安野光雅美術館の一室で津和野の風景を書き続けている。
晩年を迎えて、ふるさとの山河は特別なもののようで、原点回帰しているご様子。

津和野で絵筆を振るう安野さん、私が小学生のころ出会った安野さん(世に出ようとしていた時代だったのかも)より、
ずっと穏やかな表情で、少年のように遠くを見ておられたのが印象的であった。

また、津和野に行きたくなった。