永山則夫。
1949年昭和24年、網走の貧しい家庭に8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれる、
父親は腕のいいリンゴの剪定師だったがギャンブルに明け暮れ、
母親は則夫など4人の子どもを残して、実家の青森に逃げ帰る。
やがて、網走の民生委員に飢餓状態の兄弟が発見され、母親のいる青森に送られるも、
青森では則夫は兄から暴行を繰り返し受ける。
中学を卒業と同時に、東京に集団就職し、
則夫は高級果物店で頭角を表し将来を嘱望され、新規店を任されている。
しかし、貧しさからはたらいた万引きの過去が周囲に知れ渡ることになり、
則夫は店を飛び出し各地を転々とし、その日暮らしの放浪生活を続ける。
19歳の則夫は、米軍基地で盗んだピストルで、
東京のホテルの警備員を射殺。
ときは1968年10月11日、41年前の昨日(この番組の放送日)のことであった。
その後11月5日までに、京都の八坂神社の警備員、
函館のタクシー運転手、名古屋のタクシー運転手をピストルで殺害した。
獄中で文通を始めた、和美という女性と結婚。
この和美(54歳)さんがロングインタビューを受ける形で番組は進行。
沖縄でフィリピン人の父親と日本人の母親の間に生まれた和美さんは、
どこの国籍も持たない大変な境遇に育ち、当時はアメリカに暮らしていた。
永山にシンパシーを感じ、和美さんは帰国し、2ヵ月後には永山と獄中結婚。
1回20分の面接時間では埋められない2人の感情表現を、
手紙でやり取りするようになる。
永山が獄中から出した手紙は1万通を超える。
番組では、和美さんとの出会いで永山の心境の変化が生まれる様子が、
彼の膨大な手紙から丹念に紹介されていた。
和美さんのほかにも、彼の支持者は増えていき、
永山は生まれてはじめて、他人に人間らしい扱いを受けたと感じていた。
網走で母親にさえ捨てられた永山は、母親にもっとも拒絶反応を示すような人間であった。
獄中で読んだ本がいま支持者の倉庫に眠っているが、
その量と質たるや大変なもので、
海外の専門的な原著でさえ、辞書を頼りに読破しているのである。
逮捕されたときは、満足に読み書きができなかった永山は、
大学ノートに漢字の書き取りからはじめ、「無知の涙」をはじめとする手記や小説を、
十冊以上出版している。
その印税は、被害者家族に送られている。
一審で死刑判決を受けた永山であったが、二審の東京高裁の船田裁判長は、
無期懲役の判決を下す。
■幼少時からの劣悪な生育環境にさらされ、成熟度は18歳未満と同視できる
■国家の義務である福祉政策の貧困にも原因の一端はある
■和美さんという人生の伴侶を得て心境の変化が生まれている
■印税を受け取っている家族もいる
■遺族の気持ちは償えるものではないが、多少なりとも慰謝されている
生涯を贖罪に捧げしめるのが相当
生涯を贖罪に捧げしめるのが相当
という理由で、生きて罪を償い続けなさいとした。
私は、この理由で無期懲役になるのは自然なことだと感じた、
世間のどれくらいがこの判決に納得するのだろうか。
当時の弁護人や支持者や永山の映画を撮った新藤兼人などが番組で証言するという、
行き届いた内容で、永山則夫という死刑囚がなぜ生まれてどのように変わって行ったかが、
手に取るように分った90分であった。
結局、最高裁では二審判決を差し戻され、
永山は二審の弁護団を解任し和美さんと離婚をし、
ふたたび死を決意する。
生きて罪を償うことさえ許されなかったことに、
言葉にはできない想像を絶する不条理を感じていたであろう、
1997年永山は48歳で死刑執行を受ける。
番組では、膨大な量の読書と和美さんとの文通で、
獄中の永山の自分探しの旅の過程を見ることができた。
永山の生への望みや贖罪への決意と、それとの悲しい訣別が大河小説のようで、
しかし、淡々とした、ときには感極まる和美さんの語りを中心にすえた形で制作された、
感動のドキュメンタリーであった。
則夫と和美さんを見ていて、私たちは愛されるために生まれてきて、
その対象はたとえ一人でも満足なのだと、思わずにはいられないのであった。
国家の無策が、彼のような少年をこしらえたのだとすれば、
それを繰り返してはならないことも思わせる、すぐれた番組であった。