遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

女生徒/太宰治

イメージ 1

 
今日は、桜桃忌。

太宰治生誕99年、来年で生誕100年である。


かなり昔のこと、

妹が読んだと思しき文庫本を手に取った。

実在の女性の日記をもとに小説仕立てにした、

太宰治の「女生徒」であった。


つらつらと読み始めたのだったが、

いつの間にか太宰ワールドに引き込まれてしまっていた。


この小品は「ライ麦畑でつかまえて」の女の子版に近い。

いやらしい大人なんかになりたくない。

亡き父親のように素敵な男はきっと目の前に現れないだろうし、

朗らかな母親を見ていると、逆に悲しくなってしまう。


母の家事を手伝いながら、未来に希望を見出し、強くなりたいと願う、

そんな女の子のとある一日の独白を綴った清らかな小説である。




よいしょ、なんて、お婆さんの掛声みたいで、いやらしい。どうして、こんな掛声
を発したのだろう。私のからだの中に、どこかに、婆さんがひとつ居るようで、気
持がわるい。


お父さんは、社交とかからは、およそ縁が遠いけれど、お母さんは、本当に気持の
よい人たちの集まりを作る。二人とも違ったところを持っているけれど、お互い
に、尊敬し合っていたらしい。醜いところの無い、美しい安らかな夫婦、とでも言
うのであろうか。ああ、生意気、生意気。


新聞では、本の広告文が一ばんたのしい。


その口惜《くや》しさは、電車に乗ってからも消えなかった。こんなくだらない事
に平然となれるように、早く強く、清く、なりたかった。


私たち、愛の表現の方針を見失っているのだから、あれもいけない、これもいけな
い、と言わずに、こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、
みんな、そのとおりにする。誰も自信が無いのかしら。


私たちには、自身の行くべき最善の場所、行きたく思う美しい場所、自身を伸ばし
て行くべき場所、おぼろげながら判っている。よい生活を持ちたいと思っている。


早く道徳が一変するときが来ればよいと思う。そうすると、こんな卑屈さも、
また自分のためでなく、人の思惑のために毎日をポタポタ生活することも無くなる
だろう。


大地は、いい。土を踏んで歩いていると、自分を好きになる。どうも私は、少しお
っちょこちょいだ。極楽トンボだ。


そうかも知れない。私は、たしかに、いけなくなった。くだらなくなった。いけな
い、いけない。弱い、弱い。だしぬけに、大きな声が、ワッと出そうになった。


肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑
する。めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲し
い。


そのとき、ちょうど近くに居合せた見知らぬ坑夫が、黙ってどんどん崖によじ登っ
ていって、そしてまたたく中《うち》に、いっぱい、両手で抱え切れないほど、百
合の花を折って来て呉れた。そうして、少しも笑わずに、それをみんな私に持たせ
た。それこそ、いっぱい、いっぱいだった。


明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかって
いる。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。


おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこに
いるか、ごぞんじですか? もう、ふたたびお目にかかりません。