遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

飯場へ/渡辺 拓也

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飯場へ: 暮らしと仕事を記録する 渡辺 拓也 (著)

手っ取り早くとにかく仕事にありついて現金を手にしようとすれば、「寄せ場」に行ってどこかの工事現場で一日「手元」をすれば、その日に賃金が入ってくる。

寄せ場」とは、山谷(東京)釜ヶ崎(大阪)寿町(横浜)に代表される人夫を調達する場所のこと。その街に居ついて仕事探しをするための宿泊施設を「ドヤ」と呼び、寄せ場はドヤ街とも呼ばれる。

「手元」とは、工事現場での手伝いのことで、清掃や片付け仕事などのことである。一人前の「土工(土木作業員及び建築作業員)」になるには、まずは「手元」からスタートを切ることになる。

大手建設会社の、孫請けくらいの規模の建設会社は、その土工などを建設現場などに供給するシステムとして、「飯場」という生活空間で彼らの宿泊場所と食事の面倒を見ている。飯場を持っている建設業者は、建設業ではなく派遣会社に近い職種で、安定かつ恒常的に土工などを供給するために、寄せ場から人を調達してできるだけ長く飯場に入ってもらう。

著者の渡辺拓也は、北九州の大学を卒業後、大阪市立大学の大学院に入り、フィールドワークとして飯場で延べ100日以上働いた。寄せ場である大阪市西成区釜ヶ崎で手元になるべく職探しをし、その後飯場に入った。著者は都合4か所の飯場を渡り歩いて、仕事を覚えながら現場で実地研究を積んだ。

本書はその100日間の日記をまとめたものと、労働社会学としての労働を学術的観点からとらえた論考から成り立っている。朝日新聞の書評欄で目にしたので、とても興味を持って読み始めた。アカデミックな箇所はしばし二度読みが必要だったが、日記の部分はすこぶる興味深い面白い読み応えのあるものだった。

釜ヶ崎の街で職探しをする著者に、親切に段取りを教えてくれる寄せ場で出会ったおっちゃんたちとの交流を通して、読者にも寄せ場のシステムを知らせてくれる。
日雇い仕事を漫然とこなしていてもステップアップできない決まりごとなどを、言葉足らずに教えてくれ、後になって「ああそういうことかと」いう気づきがある。

また、現場での手元仕事の段取りさえおぼつかない23歳の男(著者)への周辺労働者の接し方で、仕事とはこういう気持ちでやるもんだと教わった気持ちになる。

当然のことながら、建設現場にはいやな上司や同僚や雇い主がいるのだが、それは何も土工の世界だけのことではない。日本中のありとあらゆる職場には、理不尽な人間や出来事が存在する。私の職業人としての貧弱な経験からも、それを証明できる。しかし、嫌な奴は絶対排除できないし、気づきのない人間は、排除や淘汰が待ち受けていることも知っている。

土工たちはみな残業が嫌いで、仕事の後片付けなどに手間取って帰りのバスに遅れて乗り込んだりすればこっぴどく叱られる。そして待ち切れずに、飯場への帰りのバスの中で自販機で買ったビールを飲み始め半ば宴会状態にもなる。それを粗野な連中と思うか、人間としての自然な営みだととらえるか。

著者の給料袋の写真が本書に掲載されていたが、宿泊費と食事代を引かれた日給は9000円くらいだった。ほぼ雑用同然の仕事で8時間働いて不味い3食が付いて汚い個室をあてがわれて9000円は高いか安いか劣悪か。悪くないかも。

ブラック企業でよくある死ぬほど働かされて自殺するといったケースは飯場にはない。去っていくものはいても殺されるものはいないのだ。かつてのタコ部屋(暴力的監禁的な飯場)は影を潜め、そのシステムはブラック企業に移行しているようにも思える。

多くのことを考えさせられた1冊だった。人間関係や仕事について考えさせられ気付かされる良書だった。働くことは本来いろんな意味でとても辛いことだと分かっていれば、逆に人生は楽しくなるのではないだろうかと思う。

釜ヶ崎の街で、仕事にあぶれても食っていけてるたくましいおっちゃんたちに教わるところは少なくない気がする。