遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

丘を越えて/藤山一郎


今週亡くなられた藤田まことさん、

若い頃から売れない歌手志望で、藤山一郎の歌まねなどをして糊口をしのいでいたとか。


私は、藤山一郎の大ファンで、彼の持ち歌は素晴らしいものばかり。

『酒は涙か溜息か』1931年(昭和6年

『影を慕いて』1932年(昭和7年

『東京ラプソディ』1936年(昭和11年

青い山脈』1949年(昭和24年)

長崎の鐘』1949年(昭和24年)


後年、某演歌歌手が『影を慕いて』などを歌うが、

藤山の足元にも及ばないのである。


そして私の選ぶ極め付けが

丘を越えて』1931年(昭和6年) である。

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このオリジナル音源は、明治大学マンドリンクラブとの共演で、

実にイントロが長く、インストルメンタルだけのレコードなのかと錯覚するほどである。


明大マンドリン部は、『丘を越えて』の作曲家古賀政男が創設したクラブで、

古賀は、藤山も明大マンドリン部も古賀自身も同時に売り出したくて、

丘を越えて』を作曲したのではなかろうかと思う。

この目論見は成功し、大ヒットになった。


矢野顕子が、例のアンニュイなアレンジで、よく歌っていたものだ。


話は逸れるが、藤山と岡本太郎は慶応幼稚舎、普通部と同級生であった。

後に国民栄誉章に輝く藤山一郎は、幼い頃から歌手でデビューしており、

それはそれは美声の持ち主だったと、岡本太郎が言ってたのを覚えている。

声変わりしたら藤山の歌手生命はお仕舞だと思っていたのに、

変声期を越えても素晴らしい歌手だった、爆発だ!、とも述懐していた。


学業の方は、慶応の生徒数52人中、

藤山一郎が51番(イチローの背番号と同じ)で、

当然に岡本太郎が52番だったそうな、

それでこそ天才2人である、見事な2人である。