遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

イン・ザ・プール/奥田英朗

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 イン・ザ・プール   奥田 英朗   文春文庫


50を随分前に迎えて、その半ばを過ぎて、

若かりし頃を振り返れば、なんと小さなことで悩んでいたのだろうと、少年の私がいとおしくなる。


それでも、根っからの楽天家だったもので、随分といい加減に過ごしてきた気がする。


イン・ザ・プール」の著者奥田英朗とは、

私は初対面で、なぜ彼の作品を買うことになったのかは不明だが、

おそらくAmazonの私へのお奨め本にでも入っていたのだろう。


この小説「イン・ザ・プール」には、5編の短編が収められていて、

主人公は40代前半の精神科医、伊良部一郎。



伊良部は、父親の経営する総合病院に勤務する精神科医で、

その病院の地下の診察室のドアを叩けば、

甲高い声で「いらっしゃーい」と招き入れてくれる。

その姿は色白の丸々とした肥満体で、

髪はぼさぼさでサンダルを履き、きみどり色のポルシェを駆り、

患者の容体に関わらず注射を施し、その様子をじっと眺めるのが、

たまらなく快感だという、医者でなければ近寄りたくない類の、変人怪人である。


5編の短編は、伊良部に診察してもらう方の患者の一人称の語りで、話が進む。

診察室で伊良部にはじめて出会った彼らは、一応に、この医者大丈夫なんだろうかといぶかる。

ただでさえ神経科にはじめてやってきて不安を覚えるのに、

こんな変な医者!もう二度と診てもらいたくない、などと思うのである。



話は逸れるが、ミステリーを長年読んできて、

事件を解決する手腕の高い刑事や探偵の、ひとつの典型(総てではない)がある。

初対面の印象や外見やその行動様式は、粗野で謎めいていて怪しいものなのであるが、

いつの間にか事件の核心に近づいていて、事件を解決するのである。

手際よく解決するのではなくて、何だかぎこちなく解決するのである。


そのぎこちなさが、SLのようにアナログな力強さと美しさがあり、

また会いたいと思う、また読みたいと本を手に取ってしまう魅力なのである。


「インザプール」に登場する、神経科のドアを叩く患者さんたちは、5人の愛すべき男女で、

伊良部の最初の診察で、驚いたりがっかりしてしまうのである。

まるで、フロスト警部の部下になってしまった新人警官のように、落胆するのである。


しかし、その落胆とうらはらに主人公たちの症状は軽くなっていく。

精神科医とは「こうであるべきだ」、という患者たちの思いと伊良部の印象は少し違っている。

それが、治癒の第一歩であるような気がする。


世の中「こうであるべき」だと思っていて、そうであったためしがない、

真面目な私たちは、いつもどこででも裏切られてきた。

だから「こうでなくてはならない」などと、

端から思わないほうが幸せなんだと、伊良部が教えてくれるのである。


フロスト警部がすったもんだの末、事件を解決していくように、

伊良部一郎は、ケセラセラと幸せな生活を取り戻してくれるのである。



この伊良部シリーズは、「空中ブランコ」「町長選挙」と続いていく。

奥田英朗は「空中ブランコ」で、第131回直木賞(2004年)を受賞した。