遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

アルルの寝室/フィンセント・ファン・ゴッホ

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アルルの(ファン・ゴッホの)寝室/フィンセント・ファン・ゴッホ

1889年、57.5×74cm、オルセー美術館


最近最も感動した文章、涙が出るほど感動した文章。

芥川賞作家、川上未映子のオフィシャルサイト「純粋悲性批判」より

2005.03.27 「私はゴッホにゆうたりたい」
http://www.mieko.jp/blog/2005/03/post_3.html

より一部抜粋。


そら形にするねんから、誰かに認めてもらいたかったやろうな、

誰かに「この絵を見て感動しました、大好きです」

ってゆわれたかったやろうな、

それでもいつまでも独りぼっちでよう頑張ったな、淋しかったし悲しかったな、

それが今ではあんたは巨匠とかゆわれてんねんで、みんながあんたをすごいすごいってゆってほんで、

全然関係ない時代の日本に生まれた私も、あんたの絵が大好きになった、


(中略)


だからあんたの絵は、ずっと残っていくで、すごいことやな、すごいなあ、よかったなあ、

そやから自分は何も残せんかったとか、そんな風には、そんな風には思わんといてな、

どんな気持ちで死んでいったか考えたら、私までほんまに苦しい。

でも今はみんなあんたの絵をすきやよ。


私はどうにかして、これを、それを、

あんたにな、めっちゃ笑ってな、

ゆうたりたいねん。

ゆうたりたいねん



日付から推測するに、川上は「ゴッホ展」に出かけて、

例の「夜のテラス」が来日した展覧会に出かけて、

その感動で一気に書き上げたものであろう。


当時の彼女は作家デビューはしていたのだろうか、

とにかく、生ゴッホを見てきて、

その思いをクロッキーのごとく大阪弁で一気に書き上げた

ゴッホ賛歌。


なるほど、川上の感性は、あけすけで素晴らしいものだ、

他の誰でもなく、

ゴッホの絵を見た感動を当のゴッホに伝えたい気持ち、

「私はゴッホにゆうたりたい」に心が震える。


最後の「ゆうたりたいねん」に句点は存在しない。

何か永遠を感じる。


単に付け忘れただけかもしれないが、

私はそう思う。