遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

蟹工船/小林多喜二

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 「証言記録 兵士たちの戦争」というNHKの番組。

太平洋戦争で外地の戦場から生還した元日本兵

彼らはすでにアラウンド90という高齢、

当時の米軍との闘いと、悲惨な軍隊生活を語ると言う番組。



待てども待てども食料や援軍はまったく来る様子はなく、

空腹を抱え、昆虫や木の皮や生の野ネズミを食べて生き延び、

やられっぱなしのすさまじい戦闘でも一命をとりとめ、

感染症を乗り越えて生き延びた彼らは、

戦死した戦友のことが片時も頭から離れないと涙を流す。



小林多喜二の「蟹工船」は、1929年(昭和4年)に発表された。

いま、ブームといえるほどの売れ行きで、

書店には、平積みになっており、若い人が買っていくという。


函館を出向する蟹工船には、開拓した土地を騙し取られた北海道の開拓農民や、

さまざまな職業を経験してきて、なお社会の底辺に暮らす人たちや、

どこでどう騙されたのか、学生たちまで乗り込んでいた。


 波のしぶきで曇った円るい舷窓から、ひょいひょいと樺太(からふと)の、雪のある山並の

堅い線が見えた。然しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上

ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いてくると、

窓のところへドッと打ち当り、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、

窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするように、身体を揺った。

棚からものが落ちる音や、ギーイと何かたわむ音や、波に横ッ腹がドブーンと打ち当る音がした。

―その間中、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、直接に少しの震動を伴ってドッ、

ドッ、ドッ……と響いていた。時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面

をたたきつけた。



オホーツク海のかなた、カムチャッカの冬の荒海が、

蟹工船を翻弄する描写は、多喜二の筆力の確かさの証。



何ヶ月もの間、函館に帰ることなく操業を続け、

カニ缶を生産し続ける工船。


そこは船でもなく工場でもない、戦場に取り残された小隊のような様相。

棍棒とピストルを持つたった一人の現場監督が、

数百人の漁夫や雑夫を威嚇しコントロールする。

病気や衰弱には目もくれずに、カニ缶の生産個数だけが気にかかる。



あまりの不条理さに、漁夫や雑夫は船内で無血の蜂起を行う。

やがて、工船に日本帝国海軍の駆逐艦が近づいてくる。


「しまったッ!」学生の一人がバネのようにはね上った。見る見る顔の色が変った。

「感違いするなよ」吃りが笑い出した。

「この、俺達の状態や立場、それに要求などを、士官達に詳しく説明して

援助をうけたら、かえってこのストライキは有利に解決がつく。分りきったことだ」

 外のものも、「それアそうだ」と同意した。

「我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろう」




このときも、それ以降も、昭和の帝国海軍が国民の味方だったことは、

一度もなかったのではなかろうか。



「証言記録 兵士たちの戦争」で戦地を語る元日本兵の話と、

多喜二の描く「蟹工船」の物語は、

私には同じ中心点で描かれた同心円に見えてくる。