遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

走ることについて語るときに僕の語ること/村上春樹

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走ることについて語るときに僕の語ること 村上 春樹 (文芸春秋)



2週間ばかり体調が思わしくなく、

夜はおとなしく早くベッドに入って、

この本を読んで快復を待っていた日々。




「走ることについて語るときに僕の語ること」、

表紙の後姿は、上半身裸の村上春樹

かっこいい写真である。

ハワイやボストンやニューヨークや神宮外苑で、

ランニングプラクティスを続けてきた結果が、

このすらりと伸びた脚線美というわけである。


私もかつてはランナーの端くれであったから、

ランニングハイになったときの、

いつまでもどこまでも走ってゆけそうな幻覚や、

フルマラソンで35キロを越えたあたりからの、

地獄のような体が思う様に動かない苦しみも、

手に取るように理解できる。


村上春樹はそのような走り続けの生活を、

30年以上続けている。

100キロマラソントライアスロンも完走できる。


小説を書くということは、どこかマラソンと似ているような気がする。

停まると続かなくなるような、

努めないと停まってしまうような感じだろうか。

この本には、小説の創作とマラソンの練習とを中心に、

村上春樹の来し方暮らしぶりが書かれている。


私は彼の書いたものを少なからず読んできてはいるが、

彼の声を聞いたことがない(と思う)し、

少なくとも彼が村上龍のごとくメディアで何かを語るところを、

見たことがない。


普通の作家たちがそんなことをしている間も、

彼はこの地球上のどこかを風に吹かれて走っているようである、

どこかのプールでクロールの距離を稼いでいるようであるし、

どこかの埠頭を自転車で駆け抜けているようであるし、

そんな練習後に、着替えもせずにビールを飲んでいるようである。


講演のためにどこかの土地を訪れる代わりに、

彼はマラソントライアスロンレースのために、

目的地までマイカーを駆っているようである。


私は作家ではないが、もし作家だとしたら、

パーティのスピーチや講演を頼まれたり、

TV番組の出演を持ちかけられたら、

どこぞのレースにエントリーしてしまう。

そんな生活を選ぶのだろうなと、想像してみたりする。


村上春樹は、走ることについて書くことにより、

村上春樹自身を書きたかったのだろう。

作家生活そのものを書きたかったのだろうなと思う。

表紙の彼のように、ほとんど半裸の自分を書きたかったのかもしれない。


彼の墓碑銘には、

     村上春樹

     作家(そしてランナー)

     1949-20**

     少なくとも最後まで歩かなかった

と刻んでもらいたいのだそうだ。


私も経験した2回のフルマラソンは、

少なくとも最後まで歩かなかった。(自慢!!)



体調が戻れば、村上春樹が翻訳した、

レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」を

読んでもいいかなと思うようになっていた。