明日で関西での会期終了の「生誕120年 藤田嗣治展」、
人出を覚悟で京都国立近代美術館に行く。
長蛇の列、男女比3対7の入場者、平日なら2対8くらいか、
ご年輩が目立つ、私もその中の一人。
お行儀悪く、混雑する会場をいつものようにランダムに歩いた。
「素晴らしき乳白色」を持った裸婦が素晴らしい。
なかでも「タピスリーの裸婦」がお気に入り。
白い肌の女性のバックに、敢えて白いタピスリーを配するところが、
若き藤田の自信の表れなのだろう。
ピカソがその乳白色の肌に惹かれたというのもうなずける、
老いも若きも、女も男もうっとり魅了される。
南米で描いた水彩画も素晴らしい出来で、藤田は褐色の肌もたしかな腕前である。
猫の絵や童話のような絵も楽しい、素晴らしい展覧会であった。
次は、広島に巡回する。
平和祈念式典の頃に広島県立美術館に藤田がいる。
(広島展:2006年8月3日(木)~10月9日(月・祝))
藤田嗣治略歴
1886年 東京に生まれる。
1910年 東京美術学校西洋画科本科を卒業。
1913年 フランスに渡る。ピカソ、モディリアニ、スーチンらと知り合う。
1917年 パリのシェロン画廊で初めての個展を開催する。
1919年 サロン・ドートンヌに初入選し、会員に推挙される。
その後、サロンに出品を続ける一方、パリのほかブリュッセル、アントワープ等で個展を開催する。
1931-33年 パリを離れ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、メキシコを経由してアメリカに入る。
1933年 日本に帰国する。
1934年 二科会会員となる。
戦時中は従軍画家として活躍する。
1949年 ニューヨークのブルックリン美術館付属美術館 の教授として招かれる。
1950年 パリに移る。
1955年 フランス国籍を取得する。
1959年 カトリックの洗礼を受ける。
1966年 ランスのノートル=ダム・ド・ラペ礼拝堂のフレスコ画を制作する。
1968年 チューリッヒの州立病院で死去、81歳。
1886年 東京に生まれる。
1910年 東京美術学校西洋画科本科を卒業。
1913年 フランスに渡る。ピカソ、モディリアニ、スーチンらと知り合う。
1917年 パリのシェロン画廊で初めての個展を開催する。
1919年 サロン・ドートンヌに初入選し、会員に推挙される。
その後、サロンに出品を続ける一方、パリのほかブリュッセル、アントワープ等で個展を開催する。
1931-33年 パリを離れ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、メキシコを経由してアメリカに入る。
1933年 日本に帰国する。
1934年 二科会会員となる。
戦時中は従軍画家として活躍する。
1949年 ニューヨークのブルックリン美術館付属美術館 の教授として招かれる。
1950年 パリに移る。
1955年 フランス国籍を取得する。
1959年 カトリックの洗礼を受ける。
1966年 ランスのノートル=ダム・ド・ラペ礼拝堂のフレスコ画を制作する。
1968年 チューリッヒの州立病院で死去、81歳。