遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

選抜高校野球大会の思い出

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第37回選抜高校野球大会(甲子園)
1965年(昭和40年)3月27日~4月4日

◆準々決勝
市和歌山商(和歌山) 5-0 東農大二(群馬)
高松商(香川) 5-2 PL学園(大阪)
徳島商(徳島) 6-1 苫小牧東(北海道)
岡山東商(岡山) 3-0 静岡(静岡)


この大会の準々決勝の日に、小学生の私は甲子園球場の内野席に居た。

甲子園は初めてであった。


市立和歌山商業の3番バッターは、

前の試合で一試合2ホームランを放ったスラッガーであった。

彼が打席に入るときに、拍手が興ったのが印象的であった。

彼はその後、阪神タイガースに入団し、

当時日本一の遊撃手だった吉田義男二塁手に追いやり、

いきなり一軍レギュラーでデビューし、引退まで一度も二軍に行くことはなかった。

名前を、藤田平といった。


この大会の決勝は、岡山東商業高校と市和歌山商の対決であった。

岡山東商のエースは、緒戦から完封勝利を重ね、

勝戦に1点を取られるまで連続イニング無失点記録を続けていた。

39イニングという連続イニング無失点記録は、いまだにセンバツ大会の記録である。

優勝の栄冠は、1点を守りきったエースの活躍で岡山東商に輝いた。

エースピッチャーは、夏の大会では振るわず、卒業後はプロ野球に入ることもなく

しかし、社会人野球の日本石油で大活躍した。

社会人野球の実績で、その後大洋ホエールズに入団し、瞬く間にエースになった。

名前を、平松政次といった。


私の応援していた地元チームは、残念ながら敗退した。

まだ3回目の出場のPL学園であった。

まだ、強くなる途上のPLではあったが、応援団のレベルは日本一だった。


北海道からやってきた、エンジのアンダーシャツの苫小牧東高校。

そのとき、苫小牧という地名を覚えた。

今回は出場ならなかった駒大苫小牧だが、

あの頃の北海道チームは、一勝するのもすごいことであった。



センバツ高校野球のシーズンになるたび、あの日を思い出す。