今年オリックスで再び采配を振っていた、仰木彬の訃報に接し驚いている。
鈴木一朗(イチロー)は、オリックスの1年目と2年目には、
ほとんど一軍の試合に出場していない。
理由は簡単、当時の首脳に一軍で使ってもらえなかったからである。
彼は、入団1年目のウェスタンリーグ(二軍のリーグ)で、
打率.366で首位打者になっている。
その年の、2軍のオールスターで、代打で登場した8回に、
鈴木は決勝ホームランを放ち、9回にもヒットと盗塁を決めてMVPを獲得し、
賞金100万円を手にする。
イチローは、その100万円全額を神戸の養護施設に寄付している。
そんな、品行方正な若者だったが、
持ち前のバッティングホームを変えない頑固さから、
一軍監督・コーチの反感を買い、
抜群の実力を持ちながら1軍ではほとんど使ってもらえなかった。
2年目の一軍の試合で、鈴木は野茂秀雄から、
プロ入り1号ホームランを放った。
しかし、「彼は、ホームラン打者を目指している。勘違いしている。」と、
1軍監督に、翌日には2軍に戻されている。(オーマイゴッド!)
しかし、悪いことは長く続かず、
鈴木の3年目のシーズンに、監督として仰木彬がオリックスにやってきた。
仰木は、当時売り出し中で人気者だった佐藤和弘を「パンチ」名で、
ついでに、鈴木一朗という新進気鋭を「イチロー」として選手名登録した。
このアイデアは誰かが考えたのだろうが、
それを許した監督は偉い。
仰木は、お茶目なユーモアを解する、珍しい指導者であったと思う。
鈴木一朗は、イチローと改名したその後の活躍は、周知のとおりである。
彼は、9年間在籍した日本のプロ野球で、2年目にウェスタンリーグで、
打率.371をマークしながら首位打者になれなかった以外は、
8年間首位打者(1年目はウェスタンリーグ)であった。
その間、仰木はイチローのフォーム改造を命じることは、もちろんなかった。
また、同じく前の首脳陣に潰されそうになり、
腐りかけていた現大リーガー田口壮をも、復活させた。
遡って、近鉄の監督時代にも、野茂のあのピッチングフォームを、
断固として改造しなかったのも、仰木であった。
彼は、三原脩監督率いる、大下・中西・稲尾・豊田らを擁する最強軍団、
西鉄ライオンズの、名バイプレーヤーであった。
個性豊かな最強軍団を、「長~い長~い手綱」で自由に操った三原脩のDNAが、
仰木にも宿っていると思う。
イチローや田口を潰しかけたオリックスの首脳陣は、
それはそれとして、彼らの理想野球を追及すべく、
任務を全うしていたと思う。
マネジメントのスタイルはいろいろある。
結果的に、選手に理解されずに、成功しなかっただけである。
もし、仰木が監督をしていなかったら、
イチローや野茂は今頃どうしているだろうかと思うと、
それはそれで、ちょっとコワイことでもある。
仰木彬は、
グランドで野球をするのは選手であることを、
もっともよく理解していた監督であった。
慎んで冥福を祈りたい。