遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

絶望の裁判所/瀬木比呂志

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絶望の裁判所      瀬木 比呂志      (講談社現代新書

Amazonの内容紹介より
裁判所、裁判官という言葉から、あなたは、どんなイメージを思い浮かべられるのだろうか? ごく普通の一般市民であれば、おそらく、少し冷たいけれども公正、中立、廉直、優秀な裁判官、杓子定規で融通はきかないとしても、誠実で、筋は通すし、出世などにはこだわらない人々を考え、また、そのような裁判官によって行われる裁判についても、同様に、やや市民感覚とずれるところはあるにしても、おおむね正しく、信頼できるものであると考えているのではないだろうか?
しかし、残念ながら、おそらく、日本の裁判所と裁判官の実態は、そのようなものではない。前記のような国民、市民の期待に大筋応えられる裁判官は、今日ではむしろ少数派、マイノリティーとなっており、また、その割合も、少しずつ減少しつつあるからだ。そして、そのような少数派、良識派の裁判官が裁判所組織の上層部に昇ってイニシアティヴを発揮する可能性も、ほとんど全くない。近年、最高裁幹部による、裁判官の思想統制「支配、統制」が徹底し、リベラルな良識派まで排除されつつある。33年間裁判官を務め、学者としても著名な著者が、知られざる裁判所腐敗の実態を告発する。情実人事に権力闘争、思想統制、セクハラ……、もはや裁判所に正義を求めても、得られるものは「絶望」だけだ。

瀬木 比呂志(せぎ・ひろし)一九五四年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。著書に、『民事訴訟の本質と諸相』、』、『民事保全法〔新訂版〕』(ともに日本評論社、後者は春ころ刊)等多数の専門書の外、関根牧彦の筆名による『内的転向論』(思想の科学社)、『心を求めて』『映画館の妖精』(ともに騒人社)、『対話としての読書』(判例タイムズ社)があり、文学、音楽(ロック、クラシック、ジャズ等)、映画、漫画については、専門分野に準じて詳しい。

津田大介の情報番組でゲストで出演していた瀬木比呂志を知る。その番組で本書「絶望の裁判所」と著者の人となりも知る。

このたびノーベル賞を受賞した中村修二は、かの「青色LED訴訟」で高裁からの和解を受け入れた。その和解勧告に対して、中村は「日本の司法制度は腐っている」と怒りの発言をしている映像が、ノーベル賞受賞報道とともにたびたびメディアで流れた。

日本の裁判(民事訴訟)では、実に「和解」が多い。なぜ多いかその理由が本書に書かれている。そして、中村博士の「司法制度は腐っている」との発言根拠と理由もこの「絶望の裁判所」で元裁判官の著者瀬木比呂志が詳らかにしている。

この「和解」をはじめとする市民をないがしろにした裁判官の怠惰、最高裁の上意下達の思想統制などなど、現在の司法制度の実にさまざまな腐敗実態が、読み物としてわかりやすく網羅的に書かれている。その腐敗体制は、いまやこの国のどこにでもあり、「司法にもありますよ」と著者が紹介してくれている。しかし、腐敗が許されない組織(司法をつかさどる裁判官は約3000人という)が崩壊寸前だという実態は由々しき問題である。

本書は、何日間かかけて朝食前に少しずつ読んだ。安らぎの夜に読むにはつらいものだったから、朝に読んだ。
政権も霞が関(官僚)も司法も、「民は愚かに保て」という考えに成り立っている。私たち市民は、これを絶望と呼ばずに何と呼べばいいのだろう。