遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

私とは何か/平野啓一郎

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私とは何か 「個人」から「分人」へ  平野啓一郎  講談社現代新書

 

いやな上司を前にした自分は、そのことを悟られないように作り笑いなどでごまかし殻に閉じこもる。
いっぽう、週末にしか会えない恋人と過ごす時間はとても楽しくて開放感にあふれている。
恋人に会えない平日は、寝る前に好きな音楽を聴きながら本を読むことが楽しみ

 

これが自分だとしたら、恋人といるときや音楽や本を楽しむ自分が本来の自分なのだと言えるだろうか。
いや、上司の前の委縮した自分も、恋人といるときの溌剌とした自分も、両方自分なのだ。

 

作家平野啓一郎は、「個人」をさらに分割した「分人」という造語を作り出し、
その「分人」たちが「個人」を構成していると説く。
「ドーン」という未来小説で「分人」を登場させた平野は、
新書「私とは何か」で、分人の概念を私にも理解できる分かりやすい言葉で説いてくれた。

 

ある個人がさまざまな人と接するときに、個人の中に住むさまざまな人用の分人が、
お出ましになってその役目を果たしてくれる。接する人の数だけ、分人の数も存在する。

 

先の例でいうと、いやな上司に対する分人Aと週末の恋人に対する分人Bと本好きの分人Cが、
個人の中に同居しているのである。
その3人の分人のうち、分人Aでいる時間は分人BやCでいる時間よりはるかに長い。
しかし、上司や自分が人事異動すれば、委縮した分人Aは眠ったままで出番はなくなるだろうし、
恋人と結婚すれば、快適な分人Bの時間は大幅に増えるだろう。
分人の構成比率は、時として変化する。

 

委縮した分人Aは、自分らしくない認めたくない自分なのだけど、組織の中で生きるには仕方のないこと、
恋人との時間を生きる分人Bと、寝る前に好きな音楽を聴きながら本を読むことが楽しみな分人Cを大切にしよう。
「分人」の「価値」の大きさは自分次第で大きくも小さくもなり、だれにも邪魔されない。
そう考えれば、自分でもいやだと思う分人Aを生きることも、そんなに苦しくなくなってくる。

 

反対に、自分は1本筋の通った人間で、誰と接してもまったく同じように振る舞うのだ、
と宣言して実際にそれを実行している人がいたとしたら、とても生きにくい生き方をしている最中だと思う。

 

それよりも、自分には「分人」が多く居て、いやな「分人」も大事な「分人」もいてこその自分なのだと考えれば、
長い人生も楽しく暮らせるというものだ。

 

平野啓一郎の小説は読んだことがない。
彼が芥川賞をとった「日蝕」を読もうとしたが、読めない字が多すぎてその文体についていけなくて、
挫折したのであるが、本書は万人向けに分かりやすく書いてくれている。

 

本書は、高校生はもちろん、高校受験を終えた春休みの中学3年生でも理解できると思う。
こういう考え方の大人もいて、それに賛同する大人も少なからずいる、と思って読むと、
楽しい人生に出会える可能性が広がると思う。

 

もちろん大人が読んでも楽しい人生が見えてくる、そんな1冊である。

 

私とは何か ~「個人」から「分人」へ~
目次
第1章 「本当の自分」はどこにあるか
第2章 分人とは何か
第3章 自分と他者を見つめ直す
第4章 愛すること・死ぬこと
第5章 分断を超えて