遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

平野啓一郎著「ある男」を読みました

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平野啓一郎の小説「ある男」のご紹介。

 弁護士の城戸は、宮崎に住むかつての依頼人からまた仕事を頼まれる。

 依頼人は里枝という女性で、城戸はこの女性の離婚時のトラブルを解決していた。今回の依頼は、里枝が再婚し事故で亡くなった夫「大祐」についての調査依頼だった。

 大祐は、実家と折り合いが悪く断絶状態だったが、里枝は死後しばらく経って実家に大祐の死亡を報せた。ところが、実家の実兄は家族写真や体格などから「これは弟の大祐とは別人だ」と断言するのだった。

 「ある男」とは、はじめ城戸のことなのかと思っていたが、調査依頼対象の里枝の夫「大祐」のことだった。

 亡くなった夫は大祐ではなくて誰なのか。城戸の「大祐調査行状」が中心に据えられていて、自ら「探偵ごっこ」と呼ぶミステリー小説のような肌触りが私には心地よい。調査が進むにつれて、大祐の秘密が解き明かされてくる。

 城戸はもうすぐ40歳という年齢設定で、本作を執筆中の著者平野とほぼ同年代だと思われる。著者は城戸に、日本の「死刑制度」「ヘイトスピーチ」「差別問題」「家族」「階級」「格差」などを語らせ考えさせている、もちろん著者の分身として確たる思いを語らせる。

 弁護士城戸は仕事ができて温和で趣味の良い男として描かれている反面、妻とは子育ての方針や社会正義の考え方などで齟齬を生じ始めていて、家庭内の問題も抱え込んでいる。

 里枝の夫だった「ある男・大祐」も城戸自身も、普通ではない「過去のある男」だった。

 「過去」は現状をどれだけ縛るのかと、いまを生きる城戸は深く考え、気分が悪くなって立ち上がれないほど打ちひしがれることもある。

 「私とは何か」(「個人」から「分人」へ)という平野啓一郎のエッセイを読んだことがある。もう7年も前になる。

 「個人」の中にはさまざまな顔をした「分人」が居て、そのどれもが人格を持って個人を構成しているという平野の説に膝を打った読者も多かろう。

 ひとつのカテゴリーに収斂されない多様さで人は構成されていて、多様な顔の「分人」たちを内蔵しているのが普通だと考えれば、幸せが見えてくる。本作もその「分人」で構成される人間の多様さがテーマになっている。

 とは言え、城戸は自分の中の「ある分人」にきっぱりと別れを告げる強さも持ち合わせていて、私とはできの違いを見せつける。大祐の人生を追いかけていて、その影響で再生したのだった。

 最終ページの近くでじんわり涙がわいてきた(最近こういうケースが多くて、私)。

 普通の人たちは、大なり小なり何らかの「過去」を持ち、それと折り合って生きている。みな愛されるべき「ある男」「ある女」なのである。良い読書だった。

 

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