1973年に2度目の来日を果たしたマイルス・デイビス、
その公演の模様は、NHKがほぼリアルタイムで放送したのであった。
その放送を見て感動した田舎者の19歳の私は、
どうしようかと迷っていた「アルバイト募集」中のレコード店のドアを叩いた。
その京都のレコード店でバイトをしてジャズを聴きながら、
いまから思えば楽しい学生生活を謳歌した。
それからさかのぼること約30年、
ディジー・ガレスピー(トランペット)の演奏を聴いて感動を受け、
ニューヨークでミュージシャンで生きて行こうと決心した18歳の少年がいた。
その少年こそがマイルス・デイビスなのだが、
「マイルス・デイビス自叙伝」は、彼の65年の生涯のうち、
18歳から亡くなる最晩年までを自らが語った記録である。
マイルスは歯科医の父親を持つ裕福な家庭に生まれ、
18歳でニューヨークはジュリアード音楽院に入学している。
もともと音楽教育を受けて育ってきた彼は、譜面も読めるし、
その上、ジュリアードで退屈な音楽理論を叩き込まれ、
中退はするものの、音楽的素養は申し分のないものだったといえよう。
その素養をバックボーンに、白人への抵抗の音楽として若きマイルスはジャズを極めていった。
この自叙伝には、実におびただしい数のミュージシャンが登場する。
19歳からジャズを聴いてきた私は、幸いにもそのほとんどの人たちの名前を知っているので、
その一人一人がどんな音楽性や才能や嗜好や性格の持ち主であるかということが、
マイルスの言葉で語られていくことが、とても興味深かった。
パリで出会った歌手のジュリエット・グレコとたちまち恋に落ちたマイルスは、
ニューヨークに帰らずに、パリで住み続ける事も真剣に考えたのだが、
結局、言葉の問題やレーベルの契約などのしがらみで、帰国している。
この頃から、麻薬に取り付かれて、ほぼ半生をヘロインやコカインと暮らしている。
マイルスが思い通りにならなかったことをひとつだけ挙げるとすれば、
それは、長い間、麻薬との決別が出来なかったことである。
その影には、パリで実現したかったグレコとの愛の暮らしや、
自国で遭遇するあらゆる場面での黒人への差別意識が横たわっていた。
彼は何度か結婚と離婚を繰り返しているが、
音楽を一緒に演奏する仲間との別れは、それ以上の痛みや挫折を味わい、
だからこそ再生するエネルギーも並外れていたと感じられるのである。
マイルスはこのクインテットを、自身のキャリア最高のコンボと位置づけている。
しかし、あの演奏を70年代に入って要求されても、どんなに金を積まれても、決して従う事はなかった。
そういう何にも媚びないところが、マイルスの一番素晴らしいところであった。
マイルスの遺したアルバムを聴いているだけでは、彼の音楽への思いを理解しないままであることに、
この自叙伝を読むまで、私は気付かなかった。
ジャズ、フュージョン、ロックといったジャンル分けをすることに、
マイルスの前では意味を持たないことも、よく分かった。
とにかく彼は、音楽で過去の自分と違う自己表現をし続けたがったし、
それを阻害するものは排除し続けた。
常に音楽的に進化し続けたいという思いは、単なる優れた演奏家としてだけではなく、
作曲家として、プロデューサーとして、経営者としての才覚によるところ大であった。
まさに勇気に満ち満ちた稀有なミュージシャンであった。
ジョン・コルトレーンが死ぬ数年前にしていた音楽は好きじゃなかった。オレのグループ を離れてからの彼のレコードは、一度も真剣に聴いたことがない。オレと一緒だった時代に 始めたことを何度も何度も繰り返していただけだ。エルビン・ジョーンズとマッコイ・タイ ナーとジミー・ギャリソンの、彼の最初のグループはまあまあだった。だがやがて自分達自 身のお決まりの繰り返しになって、エルビンとトレーン以外は何も意味のある演奏をしなく なった。彼らがやっていたことと言えば、ひたすらモードで演奏するだけだった。マッコイ は、ベイビー・グランド・ピアノを徹底的に叩きつけるだけで、すぐに何のタッチも感じさ せずに単調になってしまう。それに比べれば、ビル・エバンスとかハービー・ハンコックと かジョージ・デュークのような奴が、いかに楽器の演奏法をよく理解していることか……。 トレーンの演奏だって、長い時間聴いていたらやがては単調に聴こえてしまうし、ジミ ー・ギャリソンだって格別好きにはなれなかった。結局、聴くに値するものは何もなかった ってことだ。それでも彼らは多くの人に気に入られたし、それはそれでかまわない。