遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

自家製文章読本/井上ひさし

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「自家製 文章読本」「私家版 日本語文法」 井上ひさし  (文春文庫)

 



「自家製 文章読本」ならびに「私家版 日本語文法」

ともに著者は井上ひさしである。

私のハードカバーの奥付を見ると、「文章読本」は1984年(昭和59年)に、

「日本語文法」は1981年(昭和56年)の発行とある。


私が20代の終わりから30代のはじめに購入したものである。



内容はよく憶えていなかったが、いま少し読み返してみて、

この2冊の膨大な資料(小説・随筆・詩・短歌・CMコピー・説明書き等、

あらゆる世界の日本語が登場する)に、そしてその資料を無駄なく使って、

「日本語」の研究をさりげなく私たちに示してくれる著者の力量と真面目な姿勢に、

心底感服する。


   清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月

   肺炎に罹って死んで仕舞った。死ぬ前日おれを呼んで坊ちゃん後生だから清が死んだら、

   坊ちゃんの御寺へ埋めて下さい。御墓のなかで坊ちゃんの来るのを楽しみに待って居ります

   と云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

  
 最後の文の上にかぶせられた「だから」には、「日本文学史を通して、もっとも美しくもっ

とも効果的な接続言」という讃辞を贈りたい。ここでは接続言は思考の操舵手や転轍機である

ことをはるかに超えて、ばあやの後生をねがう坊さまにまでなっている。「だから」の三文字

は百万巻の御経に充分拮抗し得ているのである。



漱石は接続言を使わずに、たとえば「草枕」の冒頭のように、

胸のすくような愉快な、隙のない文間を作り出す飛切上等の天才である。

それでいて読み手はすべての意味を作者から与えられているので、

安んじて言葉の波に揺られていればよいのだと、井上は言う。


とはいうものの、一方では文間の余白づくりの達人で、接続言のすぐれた使い手でもあったと、

上に示したように、「坊ちゃん」の最後の見事な部分を

「見事」に紹介してくれるのである。



「自家製 文章読本」と「私家版 日本語文法」には、

おびただしいすぐれた解説群が存在する。

何処からどのように読んでも成立する、素晴らしい解説である。

しかも、ユーモアがある。私は今日ななめに読み返していて、

おかしさに嵌ってしまった箇所があった。



文章を書いたり読んだりすることが、この2冊を読むことによって、

少し奥深いものになるのではないだろうか。


読み手が文章を書くプロでなくても、

井上が正攻法で語っていることや、

誰かを揶揄しているユーモアのありようは、

文章を読み書きする心(テクニックではないような気がする)を

養ってくれると思う。


 書記行為と読書行為を一緒くたに考えることは、文章を綴るときに大いに役に立つ。という

のは、書き手は自分が書いた文章についての最初の読み手だからである。前にも述べたことが

あるけれど、書くということは、書き手が自分の精神の内側で考え、感じ、体験したことを、

おごそかに云えば精神の劇を、ことばを使って読み手に提示することである。読むということ

は、右の経過を逆にたどることだ。ことばの列によって提示されていることをさかのぼって、

書き手の精神の劇に立ち合い、ついにはその劇をわがこととして体験することである。(中略)


よい読み手ほど、よい書き手になるのである。