遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

モッキンポット師の後始末/井上ひさし

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「100年後の日本人にも見てもらいたい」をテーマにしたトーク番組、

NHKの「100年インタビュー」。

作家・劇作家の井上ひさしの回を観る。


井上ひさしの著書は、

「ブンとフン」「手鎖心中」「モッキンポット師の後始末」

「ドン松五郎の生活」「本の枕草子」「自家製文章読本

「私家版日本語文法」「青葉繁れる」「吉里吉里人」

などが私の本棚に並んでいる。


井上は番組で何度か、同年の大江健三郎に小説はまかせて、

自分は劇作家の道に進んだという。

しかし彼はその後小説を書き、直木賞作家にもなった。



人はいずれ病気になったり老衰で死ぬことが定まった生き物である。

人の最期は必ず「悲劇」で終る。

誰も自分の死を悲しんでくれなかったとしても、

それは客観視すれば悲劇だし、

愛する人たちが死んで、永遠に別れなければならない状況も、

もちろん悲劇である。


だから、井上は、人は悲しい人生を出来る限り笑って生きなければならない、

だから、彼の戯曲や小説のベースに在るものは「笑い」なのだと言う。


30年以上前に読んだ赤いハードカバーの「モッキンポット師の後始末」。


これは井上の学生時代の自らの体験をもとにした小説なのでは、と思うが、

こんなに笑った小説は他にない。


とあるバイトのシーンで、

私はなんだか壷にはまってしまって、

死ぬほど笑ってしまった。


しかし、笑いの裏側にある切ない悲しみも同時に感じた1冊でもあった。



この小説では、

カトリック学生寮の不良学生3人組に、いつもその尻ぬぐいをさせられ、

苦りきる指導神父モッキンポット師のあたたかさに感動させられる。



許されたり、他人のやさしさに触れると、感動し嬉しくなり、

しかし、人生の不条理が心に表れ出して、

やがて悲しくなるのが、

人の業なのかもしれない。



だけど私は、ひょっこりひょうたん島ドン・ガバチョのように、

カンラカラと笑って最期まで暮らしたいと思うのである。