私がブログを始めてしばらく経った2005年8月15日、
と題して記事を書いた。
その作品は「硫黄島からの手紙」というタイトルで、
今年度のアカデミー賞作品賞候補にノミネートされている。
作品は未見であるが、是非オスカー像を獲得してもらいたいものである。
映画と同名であるが、映画の原作本ではない。
栗林が1944年6月から1945年2月までに家族宛てに出した、
手紙がそのまま掲載されている。
戦地からの便りを、家族はどのような思いで受け取ったのであろうか。
栗林は、いつも「私は、病気することもなく元気だ、心配するな」と書き出し、
「私が生きて還れるとは決して思うな」と結ぶのである。
長男には、厳しく「今までのんびり育ってきたが、これからは父の代わりとなって、
妹たちや母親の面倒をしっかり見るように」と、プレッシャーをかける。
娘たちには、父宛にくれた手紙の感想を優しく書き、
漢字の間違いは国語の教師のように、細かく訂正して送り返している。
そして、妻には、東京は今に米軍の空襲で危なくなるから早く家財と一緒に疎開をしろ、
お前は身体が丈夫じゃないので子供たちを手伝わせろ、
私への心配は無用だから、私がいなくなった後のことをしっかり考えなさいと、
いつの手紙でも、そう繰り返すのである。
中将くらいの地位ともなると、手紙の検閲はないのか、
月給(俸給+戦地手当等で1,000円、今に換算して4百万円くらいか)、
年末賞与(2,650円、同じく1000万円強)の額を妻に知らせるし、
毎日毎日米軍の爆撃機がやって来る、でも被害は少ない、
などと、これもいつもの挨拶代わりの言葉のように記している。
栗林忠道は、おそらくもともと強靭な身体の持ち主であろうと思われる。
もちろん、精神の方も尋常ではない強靭さだと思う。
当時の最新鋭爆撃機B29がやって来て、8千メートルから爆弾を落として、
それが「狙ったところに中々よく中(あた)りました。」などと、
平然と書き記す。自分たちを狙っている敵機を「よくできました」と言うのである。
国を思い、部下を思い、家族を思う、ジェントルマンであった。
関東軍の腰抜け軍人たちとは雲泥の差である。
満州に取り残され地獄の引き上げを開始した一般人のことを思うと…。
栗林が満州にいたら、そういうことをしただろうかと思わずにはいられない。
忠道の奥様は、2003年に99歳でお亡くなりになった。
硫黄島からの手紙、こんなに家族を思ってくれて有難う、
忠道の分まで生きようと彼女を誓わせたにちがいないと思う、
地獄のような島からの愛の手紙であった。合掌。