遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

天皇が参拝しない靖国神社

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天皇靖国神社参拝は昭和天皇による1975年(昭和50年)11月21日が最後となっている。この理由については、昭和天皇A級戦犯の合祀に不快感をもっておられたとの意見が指摘されていた。もちろんのこと、今上天皇も同じ理由で一度もお参りされていない。

1978年(昭和53年)、靖国神社A級戦犯の14名を「昭和時代の殉難者」として合祀した。靖国に戦死者以外が合祀されることは例外的であった。

中国や韓国が、閣僚などの靖国参拝に不快感を通り越して敢然と抗議するのは、これら14名が合祀されているからである。靖国神社には現在、実に246万6千人の戦没者の位牌が安置されていて、A級戦犯の14名だけが引っかかるのである。

日本遺族会は、A級戦犯分祀するべきだと主張しているという。私も分祀すればいいと思う。今なら政権が簡単に予算をつけることができるのでA級戦犯分祀するのは容易だと思う。天皇も参拝しない靖国神社に存在価値はないのではなかろうか。

以下合祀されているA級戦犯(50音順)
板垣征四郎  陸軍大将、支那派遣軍総参謀長 絞首刑
1931年(昭和6年)、石原莞爾らと柳条湖事件をでっちあげ、満州事変を実行した。のち満州国軍政部最高顧問,関東軍総参謀長。13年陸相、16年陸軍大将。シンガポールでイギリス軍に投降。岩手県出身。陸軍大学校卒。

梅津美治郎 陸軍大将、関東軍司令官・陸軍参謀総長 終身刑
明治15年1月4日生まれ。昭和10年支那駐屯軍司令官のとき梅津・何応欽(か-おうきん)協定をむすぶ。二・二六事件後に陸軍次官となり,粛軍人事と軍部の政治介入をすすめる。15年大将。19年参謀総長となり,20年全権として降伏文書に調印。A級戦犯,終身刑で服役中の昭和24年1月8日病没。68歳。大分県出身。陸軍大学校卒。

木村兵太郎 陸軍大将 ビルマ方面軍司令官 絞首刑
1888(明治21)年東京都に生まれる。1944(昭和19)年ビルマ方面軍司令官に赴任し、失敗したインパール作戦の立て直しを図るも、イギリス軍のビルマ参戦に恐れをなして、反対する周辺に無断で、軍人も民間人も置き捨てて幕僚と共に飛行機で敵前逃亡し、この後陸軍大将に昇進。ビルマ戦役における日本軍の戦死者は約14万4千人に達するが、その約52%が木村の逃亡後の最終段階で発生している。
 
明治13年4月1日生まれ。参謀本部員などをへて昭和5年陸軍省軍務局長となり,軍部の満州進出を推進。平沼・米内(よない)両内閣の拓務相,19年首相となるが,沖縄戦の最中に総辞職。陸軍大将。戦後,戦犯として終身刑となり,服役中の昭和25年11月3日病死。70歳。栃木県出身。陸軍大学校卒。

白鳥敏夫 (外交官) 駐イタリア大使 終身刑
白鳥 敏夫は、大正、昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎も叔父にあたる。また外務官僚の出淵勝次は義兄にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。

土肥原賢二 陸軍大将 奉天特務機関長 絞首刑
明治16年8月8日生まれ。中国通として知られる。奉天特務機関長,土肥原機関長として,清朝廃帝の溥儀(ふぎ)の天津脱出,満州移送をはじめ,各種の対中国謀略活動にあたる。昭和10年土肥原-秦徳純協定に調印。16年陸軍大将。航空総監,教育総監を歴任。岡山県出身。陸軍大学校卒。

東郷茂徳 (外交官) 外務大臣・駐ドイツ/駐ソヴィエト大使 禁固20年
明治15年12月20日生まれ。東郷寿勝の長男。昭和16年東条内閣の外相兼拓務相となり,日米交渉の打開につとめるが太平洋戦争の開戦を回避できなかった。17年東条首相と対立し,単独辞職。20年鈴木内閣の外相兼大東亜相となり終戦工作に尽力。戦後極東軍事裁判で禁固20年の判決をうけ,拘禁中の昭和25年7月23日病死。67歳。鹿児島県出身。東京帝大卒。

東條英機 陸軍大将 内閣総理大臣陸軍大臣 絞首刑
明治17年12月30日生まれ。東条英教(ひでのり)の長男。関東軍参謀長,陸軍次官をへて,第2次・第3次近衛内閣の陸相となり,対米英開戦を主張。昭和16年首相(陸相・内相兼任)となり,太平洋戦争突入にふみきる。翼賛選挙の実施と統制強化により憲兵政治,東条独裁とよばれる戦時体制をしいたが,戦局の悪化で倒閣運動がおこり,19年総辞職。陸軍大将。敗戦後,極東国際軍事裁判A級戦犯として死刑判決をうけ,23年12月23日絞首刑。65歳。東京出身。陸軍大学校卒。

永野修身 海軍大将 海軍大臣・海軍軍令部総長 判決前に病死
明治13年6月15日生まれ。昭和10年ロンドン海軍軍縮会議全権となり,同会議からの脱退を通告。広田内閣の海相,連合艦隊司令長官を歴任。16年軍令部総長となり,真珠湾攻撃を支持した。18年元帥。戦後,A級戦犯として裁判中,昭和22年1月5日病死。68歳。高知県出身。海軍大学校卒。

平沼騏一郎 (司法官) 内閣総理大臣・枢密院議長 終身刑
慶応3年9月28日生まれ。検事総長,大審院長をへて,大正12年第2次山本内閣の法相。13年右翼結社国本(こくほん)社を結成。昭和14年組閣したが,独ソ不可侵条約の締結を機に総辞職。のち第2・第3次近衛内閣の国務相。戦後,A級戦犯容疑で終身禁固刑。昭和27年8月22日死去。84歳。美作(みまさか)(岡山県)出身。帝国大学卒。

広田弘毅 (外交官) 内閣総理大臣外務大臣・駐ソヴィエト大使 絞首刑
明治11年2月14日生まれ。ソ連大使などを歴任。斎藤内閣,岡田内閣の外相をへて昭和11年二・二六事件後首相となり,日独防共協定に調印。第1次近衛(このえ)内閣の外相として対中国強硬政策を推進する。太平洋戦争末期,ソ連を仲介とする和平工作をしたが失敗。A級戦犯として文官中ただひとり昭和23年12月23日処刑された。71歳。福岡県出身。東京帝大卒。

松井石根 陸軍大将 支那方面軍司令官 絞首刑
明治11年7月27日生まれ。第十一師団長,ジュネーブ軍縮会議全権委員,台湾軍司令官などを歴任。昭和8年陸軍大将。日中戦争では上海派遣軍司令官,中支那方面軍司令官となる。南京大虐殺の責任者として処刑された。71歳。愛知県出身。陸軍大学校卒。
松岡洋右 (外交官) 外務大臣南満州鉄道総裁 判決前に病死
明治13年3月4日生まれ。外交官を17年間つとめたのち,大正10年満鉄理事,昭和2年副総裁。5年衆議院議員(当選2回,政友会)。7年国際連盟総会の首席全権となり,8年満州国否認の採択に抗議・退場した。10年満鉄総裁。第2次近衛(このえ)内閣の外相として,15年日独伊三国同盟,16年日ソ中立条約を締結。山口県出身。オレゴン州立大卒。

武藤章 陸軍中将 陸軍省軍務局長 絞首刑
明治25年12月15日生まれ。昭和12年参謀本部作戦課長となり,盧溝橋(ろこうきょう)事件で戦線拡大論をとなえる。14年軍務局長。東条英機(ひでき)のもとで統制派の主要メンバーとして活躍した。陸軍中将。敗戦時は第十四方面軍参謀長。熊本県出身。陸軍大学校卒。