遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

選手としても監督としても超一流だった人は、野村克也ただ一人だった

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小学生だった私、昭和30年代。
すでに野村克也は何度かパリーグのホームラン王や打点王を獲得していたスーパースターだった。

パリーグ南海ホークスセリーグ阪神タイガースは、1960年代(昭和30年代)の大阪少年の憧れの球団だった。
とりわけ、優勝を何回も重ねていた南海ホークスのキャッチャーでホームランバッターである背番号19野村克也は、私のヒーローだった。

当時、野球選手が乗っている車種がステータスシンボルでもあった時代で、長島茂雄王貞治野村克也はフォードの白いサンダーバードに乗っていた。まだ若手の巨人の柴田は、それでもフォードのマスタングに乗っていた。私は少年雑誌で、そのことを知った。

野村乗っている車種と色を知っていたので、彼と初めて出会ったときにそのことが役立った。
叔母の住む泉南に、祖母と同行した時に、南海ホークスの本拠地難波球場の前を通りかかった。その時、白いビッグな外国車がちょうど私の前から休場に入らんとするところだった。もしやと運転席の人物に目を向けると、まさにサンダーバード(と思しき車)に乗った野村克也だった。嬉々として一緒にいた3歳上の従兄に「野村や!」と教えて「よくわかったなあ」と驚かれた。彼が戦後初の三冠王になった1965年頃、私が小学校高学年の夏の出来事だった。

野村克也は間違いなく日本の野球界でONと並ぶ大選手だった。

南海ホークスとゴタゴタがあってホークスを石持て終われ、選手としての晩年はファンも本人も寂しい思いをした。しかし、その後監督として再び光り輝いた人だった。

監督としての戦績と、彼の教えを乞うた優秀な選手たちが、野村克也の指導者としてのすばらしさを表象している。

最後の教え子とも言える「マー君 神の子 不思議な子」の田中将大は、いま栄光の19番をつけてニューヨークで活躍している。

選手として監督として超一流だった人は、野村克也ただ一人だった。

謹んでご冥福をお祈りする 合掌