会社人間だった父と偽装請負だった僕―さようならニッポン株式会社
赤澤 竜也 (著) ダイヤモンド社 2009/1/30
経営会議の席上、頭取の安倍川澄夫が、向かいで居眠りする赤澤に、
「おいどうしたんだ」と声をかけた。
堂々とした体格でエネルギッシュな赤澤が重要な会議で人目をはばからず居眠りするとは考えられない
「なんかおかしいぞ」と周りの役員も声をかけた。が、いびきをかいた赤澤は一週間後になくなるまで目を覚まさなかった。脳出血による死亡だった。(1989年11月16日 読売新聞)
この経営会議は、1988年1月28日、大和銀行の大手町にある東京本部での出来事だった。会議中に倒れたのが、大和銀行専務取締役であり、「会社人間だった父と偽装請負だった僕」の著者赤澤竜也の父親であった。
「会社人間だった父と偽装請負だった僕」は、NHKの番組「わたしが子どもだったころ」(2007-2010)と「ファミリーヒストリー」(2008-2017)を合体させたようなノンフィクションで、典型的に昭和な赤澤家の来し方がつづられている。
著者の略歴は以下の通り。
大学卒業後、電力関連公益法人勤務、進学塾講師、信用金庫営業マンを経て、大阪・梅田にて風俗店・高級クラブを7年にわたって経営。一時は年間5億円を売り上げる。その後トラック運転手、週刊誌記者などの職歴もあり。
校内暴力のすさまじかった大阪府内の公立中学に通っていた著者は、慶応大学で出会ったエスタブリッシュメントな階級の子女たちにある種のコンプレックスとカルチャーショックを感じ、卒業後はエリート街道を歩くことを嫌って、職業を転々とする。
父親は、大和銀行(今はりそな銀行に統合)の専務という大変なエリートでこの国の上層部に属している人物であるにもかかわらず、その長男である赤澤竜也は、慶応でコンプレックスを感じたのである。父親大好きっ子は、階級というものを痛感したのである。
ことに、トラックドライバーのとんでもない労働実態が赤裸々に綴られている。
彼の経歴のうち「風俗店・高級クラブを7年にわたって経営」という部分がすっぽり抜けているが、この7年の物語は別の書物になっているようである。それが実に残念だった。
ともあれ、信金職員の営業マンとして大阪の市井の人たちと接し、ドライバーとしてさまざまなおびただしい量の荷物を運んでいた時期を振り返ることで、赤澤が現実の世間というものをあぶりだしていく過程は、もう隠居の身である私にも面白く読めた。隠居だからこそ、気楽に読めたのかもしれない。
無菌室育ちのお嬢さんたちはショックで気が遠くなるかもしれないが、勇気を出して就活のためになると思ってぜひ読んでもらいたい。また、今の仕事や職場が嫌で嫌で仕方がないお方にもお勧めする。辞めるにも続けるにも勇気がいるということなのである。