遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

もっと泣け奇跡の稀勢の里

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大相撲。大阪での春場所が終わった。

今から39年前、朝潮(当時、長岡、高知県出身)が大学を出てデビューした昭和53年(1978年)の春場所7日目。後にも先にも一度だけ館内で生で相撲を見た日に、大関旭国(北海道)と大関から陥落して前頭だった魁傑(山口県)の死闘が繰り広げられた。

2回の水入りで勝負がつかず、異例の、結びの一番が終わって弓取り式後の取り直しという大一番になった。その日に私は偶然大阪府立体育館に居合わせた。結果は魁傑の勝利だった。

さて、私のお気に入り力士は、遠藤(石川出身、春場所8-7)と宇良(大阪、8-7)。

逸ノ城(モンゴル、6-9)がそれに次ぐ。早くから逸材だったのにチキンハートだから、いまだに幕内の下の方をうろついているのが残念だ。

それから、照ノ富士(モンゴル、13-2)も嫌いじゃない。すぐ横綱にまで上り詰めるだろうと思っていたのに、足のけががいたかった。しかも、十分に治療をしないまま土俵に上がり続けていたので、いまだに爆弾を抱えているようだし、成績もパッとしないままだった。

しかし、春場所では、照ノ富士は目つきが違っていた。体調も良かったのだろう。13勝1敗の好成績で千秋楽をを迎えていた。ただ、14日目に大関復帰をかける琴奨菊(福岡、9-6)との一戦で立ち合いに大きく変わって、大ブーイングを浴び、モンゴルに帰れとまで言われた。私も、少し批判的だったが、脚の調子が悪化していたようで、残り2日間を乗り切るのに精いっぱいだったと思う。

さて、新横綱稀勢の里(茨城、13-2)だが、私の嫌いな力士に入る部類だったが、横綱になって今場所は見違えるようだった。稽古をよくしているのだろうが、慌ててミスをするようなところがなく、早くも風格が備わったと思っていた。好きな部類の力士に入ってきた。

そのやさき、13日目に日馬富士(モンゴル、10-5)との一戦で肩を痛め、あの様子では東京に帰って治療に専念するなと思っていたら、14日目も土俵に上がる。鶴竜(モンゴル、10-5)にあっという間に寄り切られて、ああこれで休場するだろうと思っていたら千秋楽にも出場。

今場所の照ノ富士の成績から見ても、稀勢の里の勝利する可能性は5%くらいだと、こわごわ見ていたら変わり身と右腕と下半身の粘りで見事な勝利。驚いた。でも優勝決定戦ではさすがに一蹴されるだろうなと思っていた。

ところが決定戦でも、追い詰められた土俵際まで足腰のバランスは乱れず、右腕を小手に巻いて0.1秒早く相手を土俵にたたきつけて見事な勝利だった。

照ノ富士は、足の調子が万全ではなかったのが敗因だったろう。

とまれ、相撲マンガがあれば、こういうシナリオで描いたら現実離れしていると言われるような筋書きで、稀勢の里は優勝した。

おもに日本の力士を応援していて、稀勢の里好きな私の父親は、自室で喜んでいたと思う。

私は、今場所休場した白鵬(モンゴル)が4横綱では一番好きだし、モンゴルや外国人力士がそれだけの理由で嫌いではない。十両の大砂嵐(エジプト、10-5)みたいなトリッキーな力士は好きではないが、相撲のスタイルで好き嫌いがあるのみである。

しかし、稀勢の里の今場所の風格ある落ち着いた取り口と、奇跡の優勝で、応援する力士の一番手になった。肩の傷が心配ではある。