遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

凛々しさを捨てだらだらと生きろ/北山修

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もう1月以上前になるが、BS朝日の「熱中世代 大人のランキング」、ゲストは北山修きたやまおさむ)だった。

前半は、70年の大阪万博会場でのミュージカル公演「戦争を知らない子供たち」の裏話。今こそ、この歌の真価が発揮できる時代だと思わずにはいられない。

後半は、精神科医としての日本の「大人」や「若者」の生き方について、面白い話をしてくれた。以下、その後半部分を、澄んだ気持ちで生きていくためのヒントとして、ドクター北山の話をテキストに起こした。司会の新藤晶子は、これらの言葉でカウンセリングを受けたかのように、うるうるとして生き生きしていたのが印象的だった。

番組でのドクター北山語録
いちばん大事なことは、面と向かって喋るパーソナルなコミュニケーションだと思います。
「本音というテーブルの下」に真実がある。「テーブルの下」は目に届かず見えないけれど、それを膝突き合わせて顔を見つめあって、肩を並べて、「夕焼けがきれいだね」「好きだよ」といったような本当の対話をしているかしていないかで、人生はぜんぜん違うんだよね。いまそれをしていない人がいる。
ソーシャルメディアの中だけで生き生きするのではなくて、いちばん生き生きすることは、人間と人間が肌を合わせて、あるいは手を握り合って語り合うことなんだけどね。そのパーソナル・コミュニケーションの素晴らしさを提示していきたい。

「PPK=ぴんぴん生きてころりと死ぬこと」が望まれているが、いさぎよく死ぬことが私たちにとって幸せなことか?だらだら生きている奴は悪いのか?私はだらだら生きていきたい。定年で会社を辞めて朝起きても何もすることがない。この瞬間、たぶん鬱になったりするのだけど、でもその瞬間新しいことを始められる時間ができたなと思って、何か面白いことないかなと思えることが貴重で有りがたいことだと思えるようになってきた。人間が年を取らないことの最大の秘訣は、新しいことを始めるということで、これはどんな教科書にも載っている。

日本人は潔く死ぬ・消える・立ち去ることが美徳だと思ってきた。そうあるべきだと思う人が私のところ(精神科)に来る。他人が自分をどう見ているかが気になって仕方がない人が、いさぎよさを追求する
60代以降は、「居座る夕鶴」で行こう。覗いてみたら、「鶴だったの?」「そう鶴だったのよ!」と、素性がばれても立ち去らずに居座るべき。だらだら生きている奴はみっともないと思われていたが、余生をしゃぶりつくして、だらだらと生きればいいのではないか。凛々しさは不要。

今の日本は、生死にかかわることで清潔感が働いている。人間はみっともないところを持っているんだ。でもそれは肯定されるものだ、生きていていいのだ。

他者とのかかわりが大切で、自分の心を映し出してくれるものは他者しかない。「お前はわがままだけど、でもこういうところは良い」と言ってくれるのは、機械では無理で人間でしかない。だから、素晴らしい他者に出会う、この楽しみはいくつになっても途絶えない。肌と肌が触れ合う距離で、受け入れられる体験や肯定される体験を保証してくれる親友はきっといる。もし見つからなければ、カウンセラーや精神科医を訪ねていいただければそのことについて一緒に考えたいと思います(笑)。