遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

配られたカードで勝負するのさ

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ポリタスの戦後70年特集が、充実していてとてもいい読みものである。

特集の執筆陣は、先日わがブログで紹介した谷川俊太郎をはじめ、さまざまな分野の老若男女で構成されている。
その中から、冷静な若者の問いかけを紹介する。慎泰俊(しん てじゅん)という起業家が書いた(語った)「国家的狂気という病を防ぐために」が秀逸。

私は安倍晋三を首相の座から引きずりおろし安保法案を廃案にしたいと心底思っているのだが、だからと言って匿名(匿名だからこそ)のSNSで、首相やその周辺を罵詈雑言の限りを尽くして罵倒したり憎悪の気持ちを口汚く表現したりすることを避けようと思う。
出自から、おそらく艱難辛苦を経験したであろうに、「配られたカードで勝負するさ」と言う慎泰俊のスマートでクールな主張を読んでその思いを強くした。

好戦的な憎むべきだが無防備である輩を、暗闇に隠れて(匿名で)機銃掃射することに正義は存在しないと思うのである。自戒の念を込めてここに慎の文章を紹介する。


国家的狂気という病を防ぐために  慎泰俊 (しん てじゅん 起業家)

(抜粋)
現在、多くの人が、意見の異なる相手を憎んでいるように見えます。そして、いかにしてその相手を論破するかに神経を割いているようです。相手の論理的矛盾を突くだけでは足りず、多くの場合相手を矮小化しようと小馬鹿にする言論がついてくるのが特徴です。

左翼・右翼、保守・リベラルといった政治的なポジションに関係なく、こういった姿勢を取る人々こそが、意図せずして平和に対する最大の敵、国家的狂気という病をもたらす病原菌になっているのだと思います。相手をやっつけようという目的で議論をする人は、知らず知らずのうちに憎悪や偏見と敵意の虜になり、いつか自分自身がそれによって衝き動かされるようになります。結果としてその人個人が身を滅ぼすのみでなく、周囲の人々も憎悪に巻き込んでいきます。こうした人々には、対話を通じて何が正しいことなのかを探求しようとする姿勢が圧倒的に不足しています。

では、具体的には何をすればよいのでしょうか。3つの原則を提案したいと思います。これができるだけで、今の言論空間に存在している嫌な空気は、だいぶ晴れていくのではないでしょうか
(1)議論の目的は自己弁護ではなく、何が正しいのかを知ることに設定すること。反論されても、自分の人格が傷つけられたと思ってカッとならないこと。自分の間違いに気づいたら糊塗せず「有難うございました」と素直に謝ること。
(2)相手の言うことがわからなかったら、すぐに反論せず、まずは質問をして真意を問うこと。相手の理解に努め、故意に矮小化しないこと。
(3)見ず知らずの人と議論する場合には、できるだけ敬語・丁寧語で話すこと。

(略)
昭和後期に生まれた私に唯一存在する戦争の爪痕といえば、私が親から受け継いだ朝鮮籍という記号です。これは「植民地時代に帝国臣民として朝鮮半島から日本に渡り、戦後も日本に暮らす人」を意味しており、私は法律的には無国籍です。よって、パスポートを持たずに世界中を旅し、時には別室に連れていかれ「お前は何人なんだ」と質問をされる度に、私は自分の祖先の過去を思い出します。

よく、「なんでそんな面倒なステータスのままいるんだ、日本国籍や、せめて韓国籍を取ればいいじゃないか」と言われます(「北朝鮮籍」は日朝間で国交がないため日本に存在しません。実際問題、その選択肢が存在するとして何人が取得するかは不明ですが……)。
この時に思い出すのは、漫画ピーナッツのお話です。「あなた、よく犬である自分に我慢できるね」と言われたスヌーピーは、「配られたカードで勝負するのさ」と独り言をいいます。

もちろん、配られたカードが不服であれば、一旦ゲームをやり直して違うカードが配られるのを待つこともできるのかもしれません。でも、私は生まれたときに配られたカードという名のアイデンティティを放棄しないと前に進めない世の中の方がおかしいと思うのです。スヌーピーは犬のままでいいじゃないですか。

ポリタス 2015年8月15日より