遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

自画像/安井曾太郎

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私のご贔屓のブロガー、アーティストasさんの自画像(じゃなかったけれど)で、

安井曾太郎の自画像を思い出す。


この人も京の商人のせがれであった。



東京芸大にのこる彼のデッサンを見るにつけ、その写実力は見事なものである。



私は、彼の描いた義太夫語りの鉛筆デッサンが忘れられない。


安井の代表的な絵画は



などがあげられよう。


殊に、風景画の独特さは、デッサンで見せる写実力とは違い、

デザイン的というか、ほどよい省略が効いていて、私は大好きである。


パリでセザンヌをよく観たのかなと、ネット検索してみたら、

安井といえばセザンヌに影響を受けたと論じるのが通例だという。なるほど。



このまだ若い頃の「自画像」、上向きの顔でもあるので明るい印象がある。

京の若旦那らしい生意気さも表情から読み取れるが、

それより、芸術家として未来を見ている若い野望も見てとれる。


若さのある爽やかな良い作品だと思う。



安井曾太郎(やすい そうたろう、 1888年5月17日 - 1955年12月14日)、大正~昭和期の洋画家。

明治21年(1888)、京都で木綿問屋を営む商人の家に生まれる。当時の商人の息子の常として商業
学校(京都市立商業学校)に入学するが、反対する親を説得し、同校を中退して絵の道に進む。
明治36年(1903)聖護院洋画研究所(のち関西美術院に発展)に入所し、浅井忠らに師事して絵を学
び始める。
同時期、梅原龍三郎もここで学んでいた。

明治40年(1907)、先輩画家の津田青楓が渡欧すると聞いた安井は、津田とともに渡欧することを
決意。安井は、渡欧に際し、それ以前の作を焼き捨てたとのことで、彼の初期作品はほとんど現存
していない。

大正3年(1914)、第一次世界大戦が勃発しドイツがフランスに宣戦布告したことに加え、
安井自身の健康も悪化していたため、日本へ帰国した。
翌大正4年(1915)には第2回二科会展に滞欧作44点を出品し、二科会会員にも推挙される。

昭和5年(1930)の『婦人像』あたりから安井独自の日本的油彩画の様式が確立し、
梅原龍三郎とともに第二次世界大戦前後を通じて昭和期を代表する洋画家と評されている。
昭和19年(1944)には東京美術学校教授となり、昭和27年(1952)には文化勲章を受章している。