遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

自画像/三岸節子

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人間の情熱の量などたかが知れたものだが、
ときに巨大な量を持ってうまれざるをえなかった人がいる。
三岸節子がそうである。   司馬遼太郎

壁に飾る絵を捜しているとき、10年ほど前、三岸節子に出会った。
印刷かシルクスクリーンだったか、モダンなおしゃれな絵を、ネット画廊(オークションだったかもしれない)で見つけた。
それが三岸節子の作品であった。

手に入れられなかったのだが、その作品はバラの切花を描いた重厚な油絵だったと記憶する。
プリントされたポスターでもいいので、こんな絵がほしいと思った作品だった。
そのとき三岸節子の名前も忘れられないものになった。

夫の三岸好太郎は31歳で夭折した。
「節子、おれが死んだら、恋をしろよ。恋をしなきゃ、いい絵はかけないぞ」
節子は1999年94歳で亡くなるまで、いい絵を描き続けた。

そしてある日、週刊誌ではじめて見たのが節子の「自画像」だった。
昭和初年1925年の作品で、二十歳の自画像である。

鏡に映ったまま着物の合わせは左前になっているが、そんなことなどお構いもなく、才能の大きさが感じ取れるおおらかな二十歳の女が居る。

彼女の生まれた愛知県は一宮の「三岸節子記念美術館」でこの自画像と会える。

◇三岸 節子(みぎし せつこ、1905 - 1999)洋画家。新制作協会会員。
愛知県起町(後の尾西市。現・一宮市尾張物工場を営む裕福な家に生まれた。しかし、この家は不況のあおりで倒産した。この大きなショックからこの頃興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。当時の画壇における女性の地位向上に努め、生涯にてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。
岡田三郎助に師事。1924年三岸好太郎と結婚。1946年、女流画家協会を創立。1968年からは南仏に居を移して、作品の制作をする。1991年に帰国し神奈川県大磯の山荘へ転居。作品に『くちなし』『飛ぶ鳥』等。