うちの次女、高校2年生。
夏休みの宿題、読書感想文の課題作品のなかに
「塩狩峠」があったようだ。
以下、その課題作について娘と友達の会話。
ともだち「どれ読もうかなぁ。」 娘「『塩狩峠』おとうさんにほぼ無理やり読まされたけど、すっごく良かったで。」 ともだち「えーっ、本屋さんで課題の本見てたら、『塩狩峠』がいちばん分厚かったでぇ。」 娘「ははは、でもページ数関係ないって、すらすら読めたよぉ。 主人公は実際にいた人らしいし、私はキリスト教のことよく解らんけど、 でも、めちゃ感動したわ。」 ともだち「ふ~ん、そんな良い本やったん。じゃどんなストーリーか教えてよ。」 娘「なんでやねん!感動したくないんか。」
娘の友達がこの作品を選択したのかどうかはまだ判らないが、
次女は既読の作品なので、ラッキーだと思っているのだろう。
私は悪い親で、娘二人にこの作品を突きつけたわけである。
私も若い頃、人に薦められて読んだ。
素直に感動できたし、主人公の生き方が今の私の1万分の1くらいを形成している。
人を構成する要素は、先天的なものが多いのだろうが、
生まれてからの情報を取り込んだパーツでも形成されていて、
そのひとつのパーツを提供してくれる人物に、芸術に、経験に、
そうそう出会えるものでもない。
もし読まれるなら、事前情報一切なしで読まれたい。
Amazonの読者レビューを見ていると、
「電車の中で涙が止まらなくて困った」というのがあった。(事前情報だ。)
そういう読者のパーツに、この作品の何かがはめ込まれたわけである。
次は娘に、とりあえず「氷点」http://blogs.yahoo.co.jp/tosboe51/35846825.html
でも薦めてみようか、やめておこうか・・・。