遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

Black Box/伊藤詩織

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Black Box    伊藤詩織    文芸春秋

ジャーナリストの伊藤詩織が、当時のTBSのワシントン支局長に東京で準強姦罪の被害に遭った例の一連の事件。昨日、衆議院予算委員会質問でそのことが取り上げられており、委員会一般傍聴席には伊藤の姿があった。

本書は、被害者でなくては知りえないホテルの密室での被疑者の山口敬之の肉声や、やり取りしたメールの本文が包み隠さず示されている。被疑者の逮捕は見送られ、結局不起訴になったが、伊藤はなぜそんなことになったのかを知りたくて、また自分のような被害者を二度と出さないためにもペンを執ったという。

伊藤詩織は、早くから闊達に自由に育てられた両親から自立し、高校1年からアメリカのホームステイを利用して留学している。イギリスの寮のある高校に入りたかったのだがその費用は伊藤家では賄えるものではなく、アメリカの貧しい田舎町でホームステイをしながら苦学生として、その後大学もアメリカやヨーロッパでジャーナリストになるための単位を取得していた。彼女の夢は、自分で取材してニュースや映像番組を作るジャーナリストの仕事に就くことであった。

本書を読んで、伊藤詩織の真のジャーナリストになりたいという若いころからの情熱が手に取るように分った。それは起きてしまった事件の真相よりも、ある意味興味深いものだった。仕事をしないで家庭に入ってほしいというパートナーとの結婚生活もあきらめて、彼女はただ仕事に賭けた。

伊藤は図らずも自分の事件について真相を訊くために、逮捕状を取り消した山本格刑事部長(当時)に2回取材をかけている。出勤途中の山本はその場を一目散に逃げだしている。その映像は、ネットで配信されているが、少なくとも自力(協力者もいただろうけど)で山本に2度接触できているだけでも見事ではないだろうか。「人生で警察を追いかけることがあるとは思わなかった。」と本書で書いている。

彼女の来し方が本書に綴られていなければ、TBSの海外支局での仕事のチャンスが彼女にとっていかに大きい話だったかが想像できないように思う。それが結果的には、地獄に突き落とされるような話だった。それでも、彼女は負けなかった。苦学生として海外でキャリアを積んできてさえへこたれそうになっていたが、多くの人たちに励まされて本書を上梓するまでに再生した。28歳にしてその精神力に驚愕する。

年の離れた妹さんにとって伊藤は、いつもあこがれの存在だったという。伊藤は弟や妹の面倒見も実によかったようだが、妹は、本事件での姉の顔出し記者会見に頑なに反対したという。ご両親も同じ思いだったという。なにもわざわざ世間に知らせなくてもいいだろうという家族の思いも、私には痛いほどよくわかる。

しかし本件が闇に葬られることは、決して許されることではない。それは、火を見るよりも明らかなことである。

もし伊藤詩織の妹さんが本書をいつか読めば、お姉ちゃんの恐怖や悩みや苦しみを凌駕した勇気や正義や理想を理解してくれるだろうと思う。