遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

あなたは200年分生きた芸術家だ/岩城宏之

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あなたは
200年分生きた
芸術家だ

岩城宏之
(指揮者)


あの殺気は、いったい何だったのか

TBSが発足当時の呼称「ラジオ東京だったころだから、30年、いや、もっと以前かもしれない。ぼくは有楽町の近くにあったうす汚れた同局のせまい廊下を、友人のバイオリニストと歩いていた。
3人の男女とすれちがった。1人の女性に男女2人が連れ添っていたように思う。放送局ではいつも見かける風景である。
ぼくには女性が来たという意識はなく、かといってそのひとに女を感じたわけでもない。カワイコちゃんかな、という興味もなかった。どうせどこかのタレントか流行歌手なのだろう。興味がなかったので、注意を払わなかっただけなのだ。
すれちがった瞬間、すさまじい殺気を感じた。
昔の剣豪や西部のガンマンではあるまいし、ぼくにはいわゆる修羅場をくぐった経験が皆無である。だから殺気なるものを全く知らない。
しかしラジオ東京の廊下で受けた、全身に電気がかけめぐったようなあの戦慄は「殺気」としか表現しようがないのだ。ゾッとしたという生易しい気迫ではなかった。とにかくおそろしく、そして怖かった。今にも背中を斬りつけられるような気がした。
思わず早足になった。つまり逃げたわけである。4,5メートル離れ、安全圏からこわごわ振り返った。
殺気の主もこちらをチラと見たところだった。目が合った。雑誌などの写真で顔を知っていた、美空ひばりさんだった。
これがぼくの唯一の美空ひばり体験である。ひばりさんは当然オーケストラ指揮者のぼくを知らないだろうから、彼女にとっては、単なる通行人とのすれちがいだったわけだ。こちらが殺気を出していたとは、到底思えない。
あの殺気のようなものは、いったい何だったのだろうか。
多分、超々一流の人物のみが自然に発する人間力、パーソナリティー、四次元的な放射能なのかもしれない。ぼく自身、世界中のほとんどあらゆる偉大な音楽家に会ったり、一緒に仕事をしてきたが、あれほどの迫力というか殺気に出会ったことは、一度もない。美空ひばりの存在感、と書くだけで充分だと思う。
それからはテレビやラジオで、ひばりさんの歌を熱心に聴くようになった。そしてそれ以前の彼女のレコードを、遡って聴いたのだった。

テクニックを超越した音楽家だった

ひばりさんの初期のヒット曲「東京キッド」も、笠置シヅ子さんの真似のブギウギも、耳にタコができるほど聴いた。だからといって、ぼくは彼女のファンになろうとは思わなかった。妙な言い方だが、あまりにも巧み過ぎて、反感さえ覚えたのだった。
ぼくは長島選手(監督ではない)、バリトン歌手のへルマン・プライ、そして山口百恵さんの熱狂的なファンである。部屋で独り言を言うときでも「さん」付きでつぶやく。
この3人に対比する存在として、王選手(こちらも監督の彼ではない)、バリトン歌手のディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウ、美空ひばりさんがあった。心の底から尊敬する対象なのである。
しかし、3人ともあまりに完璧なひとたちなので、どうも熱狂できなかった。ファンであるためには、こちらをどこかでハラハラ、ワクワクさせてくれる要素が必要だ。共に泣き、共に喜びたいのである。後者の3人の完全無欠には、むしろ参った、マイッタみたいな感じがあった。「共に」は畏れ多いのである。
ひばりさんの歌唱は、どんなときに聴いてもパーフェクトだった。テレビだけではない。何度も実演を見に行った。
彼女のパーフェクトぶりを、冷たいとは感じなかったけれど、あんなに上手く歌わなくてもいいんじゃないか、といつも思った。一寸の隙もない芸術には、どこか不幸感がつきまとう。完全無欠さを背負う宿命への同情と言ってもいい。同業の音楽家としての、ぼくのひばりさんへのこの感慨を、理解してくれる方は少ないかもしれない。
しかもテクニックを感じさせない上手さがニクイのだ。脱帽し、尊敬するほかはない。
世界中で、これほど完璧に音程のよい歌手は存在しなかった、と断言できる。
専門的なことになって申し訳ないが、ときどきDフラットあたりの、彼女にとっては高音からのピアニッシモで歌いだすとき、アレッと思うことはあった。ほんの少しだけ音程が低いと感じた。しかしその音をひばりさんはノン・ビブラートで始め、一瞬後にビブラー卜をかけて見事な美しい音程にしてしまう。結局は彼女の思う壺で、もともとこの効果を出すためだったのがわかるのである。
ひばりさん自身はテクニックと思っていなかっただろう。歌で聴衆に語りかけるために、ごく自然にやったに違いない。テクニックという音楽上の用語を彼女の歌に当てはめるのは冒瀆であるような気持ちさえする。そんなことを超越した音楽家だったと思う。
ひばりさんはいわゆる音楽教育を、一切受けていないはずである。生まれ持った才能、つまり天才だっただけなのだ。
音楽史上唯一の「天才」は、モーツァルトだけだというのが、常識である。しかしぼくはこの言葉を、ためらいなく美空ひばりさんにも使いたい。
リズム感、表現力、無限とも思える音色の多彩さ。どれをとっても彼女に比肩できる歌手は、フィッシャー=ディスカウしかいないだろう。しかし偉大なフィッシャー=ディスカウには失礼ながら、テクニックヘの意識、自信を彼には感じるときがあった。ひばりさんはそのようなことを全く気取らせなかった。音楽を通しての彼女の語りかけに、われわれ聴衆は泣いたり幸福になったり、素直に身を委ねていればよかったのである。
ひばりさんの死のニュースのあと、「東京キッド」のテープを改めて聴き、驚嘆した。13歳の彼女は、すでに完成品だったのだ。リズムや音程の見事さについては、生まれつきのものだから今さら驚かない。だが、13歳の歌手としての幼く可愛い魅力を発散しながら、歌詞のひとつひとつの深い意味を語り、表現し、しかも音色を絶えず変化させている。
年代順に聴くと、芸の深みがより深くなってゆくのがよくわかる。しかもコミックな明るい音頭、悲しい酒や別れ、恋や波止場の唄、ガラッと違うアメリカのヒットソングのどれを聴いても、ひばりさんの本質は少しも変わっていないのである。
並みの歌手なら、仮に「東京キッド」の上手さで出発したとしても、ものの二、三年で行き詰まっているだろう。完成品から出発し、42年間、常に自己を追求した彼女のエネルギーを考えるだけで、ぼくは疲れ果ててしまうのだ。

オランダの音楽家たちは何度も何度も「柔」を聴いた

1970年ごろのことである。ぼくはオランダのハーグ・フィルハーモニーの指揮者をしていた。自宅にオーケストラのマネジャーと数人の楽員を招き夕食のあとコニャックグラスを手に話がはずんだ。
誰かが、日本ではどんなヒットソングが流行っているのかと尋ねた。音楽家の集まりでは普通、レコードなどはかけないものだが、音を出すことにした。外国にいるとき、ぼくは日本からかなり多量の新聞や週刊誌、雑誌を取り寄せているが、その時点の国の雰囲気を直接知るためには、ヒットソングを聴くのが最も早道である。だからずいぶん沢山のドーナツ盤を持っていた。
片っ端からかけ始めたが、オランダの音楽家たちは全然関心を示さないのだ。とりわけポピュラーやニューミュージックがうけなかった。こんなのは、アメリカのポピュラーの拙劣な焼き直しじゃないか、と冷たい。演歌だと、一応珍しがるのだが、それだけなのだ。東洋音階のペンタトーニック(5音音階)に悲しげな西洋のハーモニーをつけ、ダラダラと続けている歌を、なぜ日本人は面白がるのかという意見が出るにおよんで、アタマにきた。
奥の手の「柔」をかけた。
それまでひばりさんを聴かせなかったのには、理由があった。これまで書いたように、自分がファンではなかったことと、それよりも、もし演歌の神をけなされたら、という心配の方が強かったと思う。
ざまあみろ。「柔」が鳴りだしたら、全員がシーンとなって聴き入ったのだ。
「これまでの歌手たちとは、まるで違う。もちろん言葉はわからないが、この女性は何ごとかを切々と訴えている。もう一度聴きたい」
何回も何回も「柔」を聴いたのだった。
ぼくは「音楽は世界の言葉」という言い方に、必ずしも同調しない。さまざまな国で音楽の仕事をしていると、そのように安易な、ばら色ではない事態に多く直面するからだ。
しかし、オランダの音楽家たちの反応で、考えを変えようと思うようになった。彼らの純粋な感動は、ひばりさんの音楽の力以外の何ものでもない。力は「別れ」でも「恋」でも「波止場」でもなく、言語や歌詞を超越した彼女の「音楽性」だったのだ。そして「音楽」を通じて、言葉のわからないひとたちにも物語ったのである。たった3、4分の歌を、大きな歌劇にしてしまったのだ。
現在でもぼくが山口百恵さんのファンであることに、変わりはない。初めあまり巧みではなかった百恵さんが、5年間で信じられないほど巨大に成長した才能と、最盛期にパッと引退を決行した美学に対して、いつまでも熱い想いを抱くだろう。
だが、ひばりさんが逝ってしまった今、彼女を尊敬するだけだと言ってきたのは、自分の変な意地だったのに気が付くのである。
この誌上で、ぼくがひばりさんに音楽的な尊敬、畏怖、憧れ、喜び、涙などのすべてを捧げたファンだったことを白状する。ひばりさんほどの素晴らしい音楽生涯を送ったひとは、世界文化史上何人いたかとも思う。
42年間「日本のうた」の主役を務めたひばりさんは、一流の芸術家の二百年分の仕事をやり遂げたのではないか。
このような音楽家は、もう永久に現れないだろう。

初出週刊朝日1989.7.6号