「野球のたとえ話であれこれ説明する人になってはいけない」が持論の武田砂鉄の「プレ金ナイト」に、ひと月ほど前にゲスト出演した酒井順子が、野球のみならず相撲も含めて「2大例えやすいスポーツの野球と相撲」を私は使っていくと、和やかに話していました。
私も、藤井聡太の大逆転将棋について、「3点差をつけられていた9回2アウト満塁で逆転ホームランを打った」みたいな表現をつい先だってしたばかりでした。
野球や相撲は誰も知るスポーツだから、ルールやゲームの盛り上がり方など、たとえ話が作りやすくて理解されやすいと思います。
私はもうすぐ70歳になりますが、大相撲の「ひと場所15日間」の例で言いますと、「人生の13日目」位に差し掛かっていて、残すところあと2日のところを生きています。
ところで、13日目で現在の星取表はというと、4勝9敗とか5勝8敗くらいで、もう8勝以上の勝ち越しは無理な所に来ています。ですから、「人生場所全15日間」の私の勝敗は4勝11敗とか5勝10敗くらいだと思っていますが、相撲の星取表の例を出しておいて言うのも何なのですが、人生は勝ち負けではないように思います。
もっとずっと若い頃に、まだ「人生場所10日目」くらいの頃、妻に「オレの人生の今の勝敗、良くて4勝6敗くらいかな」と言って驚かせてしまいました。
能天気な私を見て、8勝2敗ですでに勝ち越しているように見えていたからかもしれませんが、ちまたでよく言われる「勝ち組」に属するのって相当ダサいように思いますがいかがでしょう。
読んだばかりの小説「この世の喜びよ」のなかで、母親(主人公)が仕事で悩む小学校の教師の長女に向けて「そういう、誰かにしてもらうことが目標になるとつらいよ、もらえなかったから、悲しむなんて」と言うシーンがありました。
その母親の言葉に100%私は同意できますが、仕事に就いたばかりの長女にそれを言うのが良いのか悪いのか、人生はいろいろだし難しくて、正解はないように思いました。
私は大人になった「人生場所4日目」くらいから、人付き合いはできるかぎり避けて、仕事は責任を全うしつつ、可能な限り独りで楽しいことと向き合って生きてきました。
そういう生き方をしていたんだな、と言語化して理解できたのはある哲学者の本を読んだ50代でしたけど、そういう人生は勝ち越さないわけで、思えば人生の10日目以降は「誰かにしてもらうことが目標」でない人生を生きてきました。
ということで、勝たなくてもいいのですから、負け越しは不幸ではないようでありました。