帰りの電車の目の前の初老の男性が手にしていたのが、
「西洋絵画の楽しみ方完全ガイド」という楽しそうな本。
その本の表紙がレオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」で、
男性は、買ってきたばかりと思しいこの本で正月にゆっくり愉しもうというのか、
車中でパラパラと真新しい頁をめくっていた。
私の正月本は、金井美恵子の「スクラップ・ギャラリー」、
電車で男性が持っていた本に近い、
箱根駅伝を横目にこの本を読んでいたりした正月であった。
世におなじみでかつ金井のお気に入りの芸術家の作品群が、
著者の教養豊かさと高い想像力で紡ぎだされた鑑賞文とともに
ぎっしり詰め込まれたスクラップ・ギャラリーである。
しかし、そんなに世におなじみでなく、
金井が心底好きそうな作品群が残り3分の2くらいを占めていて、
それがまた実に面白く読めて、興味深く作品を鑑賞できるのである。
「受胎告知」で言えば、金井のお気に入りは、
少し世におなじみのフラ・アンジェリコの作品。
私の好きなダ・ヴィンチの作品も登場して以下のような一文がしたためられる。
(略) レオナルド・ダ・ヴィンチの、まさかそんなこと、あたしは信じない、とでも口 にしそうに口を尖らせ気味に頬を赤くしてふくらませ、告知をする天使を不機嫌ににらんで いる十代の若い娘のように見えるマリアと、優秀な頭脳で陰謀をめぐらして出世する将来の ことを考えている野心家の青年のように見える天使のそれが、すぐ目に入り、絵画の題材 が宗教画から世界的主題へと変化するルネッサンスの歴史が絵の手法の変化ともども見て とれるのだが、そうした時代の変化の中で、フラ・アンジェリコの『受胎告知』は、まるで 同時代性や歴史性からまぬがれてしまっているかのように、美しい静かさの中で、いわば永 遠の無垢の瞬間としての空間を現出させてしまうのだ。
我が崇拝する作品に少し手厳しい金井の一文は実に長い。
読めども読めども句点が登場しない。
上に紹介した文章は実に長いワンセンテンスの一部なのである。
「受胎告知」を登場させた後に、本命のアンジェリコを登場させるのである。
一気に書き上げないと幸せが消えてしまう日記のように、
息長く書き上げないと思いが萎えてしまうラブレターのように、
金井は長いセンテンスで一息で一気に書きあげる。
私は、アンジェリコも好きになってしまった。
電車で会ったあの男性にもこの本を読んでほしいと思ったのであった。