インドへの道 A Passage to India
監督 デヴィッド・リーン
脚本 デヴィッド・リーン
原作 E・M・フォースター
音楽 モーリス・ジャール
日本公開 1985年8月12日 上映時間 163分
30年前、まだ結婚前に女房と京都の映画館で観たデヴィッド・リーンの「インドへの道」をテレビ録画にて再鑑賞。
モーリス・ジャールの音楽と、雄大な自然を背景に人間の「悲しみ」をあらわしたデヴィッド・リーン作品は、「アラビアのロレンス」以降の作品に共通したものだろう。(「アラビアのロレンス」1962年、「ドクトル・ジバゴ」1965年、「ライアンの娘」1970年)
英国のインド統治時代。インドで裁判官の職に就いているフィアンセのロニーの元へ、アデラはフィアンセの母親であるモア夫人とともに英国からインドへ旅する(本作の原題:A Passage to India)。
画像左上は、彼女たちが乗った船がインドに着いたシーン。同じ船にインド総督が乗っていたため、派手な式典に迎えられる。
その右は、さらに列車に乗り目的地に着いた時の、アデラとモア婦人。彼女たちの視線は、婚約者であり息子であるロニーに向けられている。
右下は、アジズが計画した「マラバー洞窟」への小旅行。象に乗るのはアジズとアデラとモア婦人。
マラバー洞窟への小旅行は、予定していた同行者たち(国立大学のフィールディング校長とゴドボレ教授)がドタキャンになり、インド人のアジズ医師がマネジメントすることになる。その小旅行先の洞窟で事件が起き、物語は思わぬ展開を見せてゆく。
男と女、女と女、男と男、イスラムとヒンズーとキリスト教、英国と印度、西洋と東洋、冨と貧困、教養と無知。E・M・フォースターの原作は、おそらくこういったものの対比が文字と言葉で書かれているのだろう。デヴィッド・リーンはこれらの対比を、スクリーンの隅から隅までを使って格調高く表現している。この格調の高さは、対比する対象のどれにも偏っていないことから派生する産物なのかもしれない。
たとえば、アデラが一人で出かけたいった古代遺跡で目にする性的な男女の像。これらを、観客はアデラのもやもやとした心象風景に置き換えることができる。こういうシーンは映画作家ならではの表現方法であろうが、カメラの眼だけで、かくも文学的に表現できるのだ。
そして私が最も感心したのが、モア夫人の人物像の作り方。彼女を演じるのは、77歳のペギー・アシュクロフト(この役でアカデミー助演女優賞を受賞したことを、いまになって知った)。顔立ちや表情が柔和で硬直していなくて気品がありとても自然な女性だ。そんな彼女にリーンは「私は人間が判ります」と言わせる。その造形美に感心する。
独立前のインドの混沌と美しい大自然と、洋の東西を問わず存在する未成熟な人間と成熟した人間とその両方を持ち合わせた人間が、もの悲しく、でもそれとなく麗しく存在する作品であった。