遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか/増田俊也

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単行本が2012年に上梓された。そのタイトル「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」にはっとさせられ、インパクトある表紙写真(木村政彦18歳の姿)に惹かれていた。厚いし高いし、そのうち文庫化されるだろうと2年待ってこのほどようやく読了。

昭和29年の暮れ、柔道家からプロレスラーに転向した木村政彦(37歳)と力道山(30歳)は、蔵前国技館でプロレス日本一の座をかけて「昭和の巌流島」と呼ばれたマッチを行った。結果は、史上最強の柔道家木村がKO負けする。

著者の増田俊也は、木村が亡くなった1993年直後からこのノンフィクションを書くため、資料を集め人と会う。

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    天覧試合優勝時の牛島辰熊(36歳:左)と全盛時の木村政彦(23歳)

大正から昭和初期にかけて、牛島辰熊(うしじま たつくま1904-1985)は、わが国最強の柔道家であった。名前(本名)にバッファローとドランゴンとベアーが入っている猛者だが、その容姿はガンダーラ仏像のように、美しくて優美で力強い男である。その牛島が自分の後継者に選んだのが、熊本は鎮西高校の後輩木村政彦であった。
その牛島-木村の師弟関係と、「すごい」鍛錬の記録が圧巻で、その鍛錬の成果は、木村と試合や稽古をした人間が証明してくれる。特に、不敗の柔術エリオ・グレイシーヒクソンやホイスの父)とのブラジルのマラカナン競技場で世紀の一戦と、試合後のエリオの証言が印象的であった。

では、そんな強い木村が、なぜどのように「昭和の巌流島」マッチで力道山に敗れたのかを、徹底的に検証していく。
木村はなぜ力道山と闘わねばならなかったのか、またその一戦は演出だったのか真剣勝負だったのか、謎が次第に解き明かされていく。

本書内の多くの文章にはさまざまな出典が明記されていて、ノンフィクション作家としては当然のことではあるが、1行書くのに要する労力は大変なことだろうと想像できる。本書のプロローグで増田は「十年以上かけて人に会い、数百冊の書籍、数千冊の雑誌、数万日分の新聞を手繰って得た私の結論」がここにあると言っている。

格闘技には、ほとんど興味のない私だが、格闘技の歴史書を紐解くような面白さがあった。また、牛島や木村をはじめ、木村をずっと慕っていた大山倍達や私たち昭和の少年の大ヒーロー力道山などなど、格闘技をめぐる人物伝も文句なしに愉しかった。

木村政彦の大きさに畏怖を覚え、間違いなく史上もっとも強い格闘家だと私は確信した。ノンフィクションなのに、吉川英治の「宮本武蔵」のように面白かった

第43回大宅壮一賞、第11回新潮ドキュメント賞受賞。