遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

史上最も悲惨なヒグマによる事件「慟哭の谷」を読みました

慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件 木村盛武  (著) 文春文庫 

「慟哭の谷」は、史上最悪のヒグマによる惨劇のノンフィクション。

その事件のあらましと本書の内容紹介は以下のとおり。
《1915年12月、北海道苫前村の開拓地に突如現れた巨大なヒグマは、一軒の民家に押し入り、阿部マユと預かり子の幹雄を惨殺。村人たちは恐怖に震えながらも、ヒグマ退治に乗り出すが、冬眠しそこねて〝穴持たず〟となり凶暴化したヒグマは、悪魔のような知恵を働かせて、村人たちを次々と牙にかけていくーー。
死者8名という世界的にみてもヒグマによる食害事件としては類をみない最悪の惨劇となった「三毛別(さんけべつ)事件」の全貌を、生存者たちへの貴重な証言をもとに描き出す戦慄のノンフィクション。文庫化にあたり、著者の『ヒグマそこが知りたい 理解と予防のための10章』より、著者自身のヒグマとの遭遇事件、さらに福岡大学ワンゲル部の日高山系におけるヒグマ襲撃事件、写真家・星野道夫氏の事件など別のヒグマによる食害事件を検証した二章を特別収録!》

「決定版-HONZが選んだノンフィクション」で知った100冊の中に木村盛武著の「慟哭の谷」があって、かねてから読みたいと思っていた。

著者の木村盛武(1920年札幌生まれ)は、営林署で林務官をしていたお方で、1980年に退官して本書を書いた。

1915年(大正4年)に発生した苫前村三毛別(とままえむら・さんけべつ)でのヒグマの事件のことを、木村は父親や伯父(ともに林務官)から幼少の頃に聞かされ、恐怖におののいたと同時にもっと詳しく知りたいと思うようになった。

そして1961年、木村は苫前村担当の林務官になる。その苫前村で、まだ事件のことを知る人たちが存命だと知り、聞き取り取材と調査を始めたという。

明治時代に北海道に入植した人たちは多くのヒグマの被害に遭っているようだが、三毛別の事件はその中でも最も悲惨な事件で、木村盛武の取材と調査で生々しいノンフィクションになっている。

100年以上も前のことなので、映像も画像も残っていなくて(怖くて探していないけど)、本書はまるで創られた「むかし話」のように私には感じられた。さいわいにも、文章だけのノンフィクションは、想像ほど怖くも悲惨でもなく読了できた。

しかし、本事件発生から得られたヒグマの恐怖や対策や事件の教訓は、昭和の時代に入って口伝で人々に広まったであろう。

木村は本書を著わすのをライフワークにしていた節があるし、父や叔父と同じ林務官に就いたのもそのこととまるっきり無関係ではないだろうと思う。

この事件をモデルにした小説や戯曲も発表されていて、作家の戸川幸夫吉村昭などが本書を参考文献としたいと木村に申し出て「羆風(ひぐまかぜ)」(戸川幸夫作、矢口高雄画)や「羆嵐(くまあらし)」(吉村昭作)などが上梓された。

登別のヒグマ牧場で見たあの巨大な猛獣と、自然界で遭遇することを想像しただけで気を失ってしまいそうになる。悲しいことに人の生活が優先されたことで、戦前までに多くのヒグマが駆除されたようだが、それでも人とヒグマの悲しいドラマはいまも綿々と続いている。