遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

風の歌を聴け/村上春樹

イメージ 1

  風の歌を聴け    村上 春樹  (講談社文庫)



26年ぶりに村上春樹風の歌を聴け」を読む。

この作品が発売されてしばらくたった1980年以来のこと。

同じ作品を2度読みすることは稀な私、

カフカ賞を受賞し、今我が国でもっともノーベル文学賞に近いというニュースもあり、

娘の所有する文庫本を手に取った。



この「僕と鼠」シリーズ3部作は当時すべて読んでいる。



   『風の歌を聴け』 (かぜのうたをきけ) は、村上春樹の第一作。

   群像新人文学賞を受賞し、1979年6月、文芸誌『群像』に発表。

   同年、芥川賞上半期の候補作品にノミネートされている。

   「僕と鼠もの」シリーズの第一作。



この作品は国籍不明の空気が漂っていたという遠い記憶、

夏休みが終わると、主人公の「僕」はちゃんと東京の大学に戻る予定があり、

日本のお話であった。

ただ、村上春樹が創りあげた、物語のゆっくりした時間の経過や、

それまでの作家にない文体は、翻訳本を読んでいるような気分になる。

私は遠い昔にそういう気分になったことは、いまだに憶えている。



「僕」とふるさとの友人「鼠」を取り巻く、1970年の8月の短い物語であり、

「僕」が思い出す自分の過去のお話と、

現在進行形のふるさとの街の「ジェイズ・バー」でのお話など、

ひとつひとつのエピソードは、少なからず刺激的で、

(とはいえ、暴力沙汰やセックスシーンなどはない。)

私にはそんな経験は神が与えてくれなかった。


しかし、作品のなかを吹く風は、決して刺激的ではなく、

夏の日の早朝の清涼な風が吹いている感じである。

ほんとはちょっと違いけど、刺すような風は吹いていない。



作品中の架空の作家や鼠の読んだ本が語りかけるものは、

読み手を頁の外にしばしば運んでくれる。


たとえば、


 「優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、

その機能を充分に発揮していくことができる、そういったものである」

とか、

 医者の言ったことは正しい。文明とは伝達である。表現し、伝達すべきことが失くなった時、

文明は終る。パチン……OFF。

とか、

 「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない。

僕たちはそんな風にして生きている」ということだ。


といったくだりである。


この作品は、作者のデビュー作であり、群像新人文学賞を受賞し、

芥川賞候補にもなった。



 とにかくなかなかの才筆で、殊に小説の流れがちっとも淀んでゐないところがすばらしい。

29歳の青年がこれだけのものを書くとすれば、今の日本の文学趣味は大きく変化しかけてゐると

思はれます。

 この新人の登場は一つの事件ですが、しかしそれが強い印象を与へるのは、彼の背後にある(と

推定される)文学趣味の変革のせいでせう。

 この作品が5人の選考委員によつて支持されたのも、興味深い現象でした。


と手放しの褒めよう。

支持した5人の選考委員とは、丸谷の他に佐々木基一佐多稲子島尾敏雄吉行淳之介であった。


5人が支持しても受賞は逃したようである、

でもこの5人が推したことのほうに意味があると、

私はいまそう思う。