遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

河﨑秋子の直木賞作品「ともぐい」は大自然と熊と人間たちがスリリングなのでした。

ともぐい 河﨑秋子 新潮社

「土に贖う」以来5年ぶりの河﨑秋子の小説「ともぐい」を読みました。

北海道の大自然と熊と人たち暮らしの物語が、北海道で生まれ育ち今も住む著者の永遠のテーマで、本作は、日露戦争開戦前夜(120年ほど前)の道東、熊が棲む原始の森や海辺の白糖(しらぬか)の町が小説舞台で、そこに暮らす人々の素晴らしい物語でありました。

物語から100年以上経っているとはいえ、人の心も道東の大自然もさほど変わりなく、熊(ひぐま)もいまだに生息し続けてもいます。

白糠は、釧路から西、9時の方向へ車で30分(30㎞)ほどの町で、河﨑秋子が育った別海町は釧路から北東、1時方向に車で1時間半(約90㎞)ほどのところにありますから、著者にとっては120年以上前に登場人物を配置した地元物語を描いたことになります。

小説の主人公はその原始の森に住む熊爪という猟師で、賢い猟犬と鉄砲1丁をたよりに自給自足の清廉な日々を送っていて、大きなクマやシカを仕留めれば森を出て山を降りて白糠の町まで肉や皮を売りに行くことを生業としています。

ただ、明治の道東でも近代化の波は少しずつ推し寄せていて、白糠の町では近代化とともに本性を隠した面倒臭い人間たちが主人公の周辺を立ちまわることになります。

面倒臭い人間との距離感を保ちつつ、小屋のある森で暮らし続け、その周辺で熊と対峙する熊爪と猟犬の描写が息詰まる迫力です。

著者の河﨑は実家の牧場でひつじを飼いながら執筆活動をしてきた作家ですから、動物の生態にも生理にも明るくて、いたるところにその証左を見ることができます。

このような小説を書けば、北海道の地理や歴史、植物や動物の生態系、動物の解体などに関する参考文献が最後の頁に並べられているのですが、それは1冊もありませんでした。一般的な基礎知識だけで、その周辺に重厚長大な肉付けができる作家の技量に出会えることができます。

本作は、熊vs猟師といった物語のイメージがあると思いますが、それに加えて、登場人物たちの書き分けと人物造形が巧みで、「この作家こんなに人物を描ける人だったんだ」と感心するほど興味深い人たちがさまざまに登場していろいろ楽しませてくれます。

本作で2度目のノミネートを経て見事直木賞を受賞しましたが、選考委員の作家たちが読んでも、私のような素人が読んでも、豊富な語彙で紡がれる自然と人が折り重なった大胆かつ繊細な筆致の物語に生身の人間の業を見ることができるのでありました。