遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

大地 (1)/パール・バック

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 大地 (1)  パール・バック   小野寺 健 (訳) (岩波文庫)


小学校の学級図書にあったパール・バックの「大地」に、

とても感動した鮮烈な記憶は、ほぼ半世紀もの間、私の心から消えることはなかった。

いつかもう一度「大地」を読みたいという気持ちも、途絶えることはなく、

このたび岩波文庫版の全4巻を購入した。


時代遅れの象徴というべき辮髪(べんぱつ)頭の貧しい農家の若者王龍(ワンルン)。

彼は町の大富豪のお屋敷に、奴隷を自分の妻に迎えるために出かけていく。

そこで、無用になったも同然の器量の悪い奴隷、阿蘭(オラン)をもらい受ける。

阿蘭は無口で、纏足(てんそく)もほどこしていない貧しい生まれで、

10歳で親に売り飛ばされて、20歳まで大富豪の屋敷で働いていた女だった。

物語は、この王龍が阿蘭を町に迎えに行くところから静かに始まる。

お屋敷の老婦人は、煙管で吸う阿片にしか興味のないような老婦人で、

よく仕えてくれた阿蘭を王龍にくれてやるのであった。


自由の身になった阿蘭と、妻を迎えて一人前の男となった王龍は、

持ち前の体力と我慢強さで、二人で黙々とわずかな広さの土地を耕して得た銀貨を、

自宅の壁に塗りこんで財を少しずつ蓄えていく。

やがてその銀貨で、阿蘭の世話になっていた大富豪から、

老婦人の阿片を買う金にも困るように没落し始めた大富豪から、

灌漑の行き届いた肥沃な農地を買うのであった。

だが、時として天候不順に見舞われた農地は、何も産まなくなり、

飢えた王龍一家は都会へ出て、路上で物もらいの生活を余儀なくされる。

しかし、たとえ我が子を売っても、土地だけは絶対売らないという、

農民の魂を貫いた王龍一家は、何とか危機を脱出しふるさとに戻る。


第一部「大地」は、極貧の生活から妻とともに抜け出して、

大富豪にまで駆け上った一人の男とその家族の物語である。


この「大地」は、正確に言うと、第一部の「大地 The Good Earth」、

第二部「息子たち Sons」、第三部「分裂した家  A House Divided」の三部作からなる。

私の読んだ「大地 (1) 」は、「大地 The Good Earth」にあたる。


そもそも、いかなる人物が The Good Earth を、大地と翻訳したのか知らないが、みごとな意訳である。

王龍と阿蘭が大地に汗をしみこませて働き、自分たちの大地を広げていく、

そんな大河小説のスケールにぴったりのタイトルである。

山崎豊子の「大地の子」やマーラー大地の歌」は、ともに中国と関係が深い作品で、

バックの「大地」から連想されたタイトルに違いない。


纏足ではない大きな足だからこそ、大地を耕し続けられた阿蘭をはじめ、

性を売り物にする阿蘭と対極にいる美しい奴隷や、

抜け目なく厚かましく上手に生きていく義理の伯母や奴隷女や、

派手な都会育ちの長男の嫁や、良妻賢母型の次男の嫁など、個性的な女性が実に印象的である。

半生を中国で暮らしたアメリカ生まれのパール・バックは、

いろんな中国の女たちに囲まれて、大人になったのだろう。

登場する女たちの艶めかしさやたくましさは、創作だけではないような気がするのである。

そして、打ちのめされたように悲しいときでも、障がいを持った末娘に王龍は勇気付けられる。

この娘への思いは、同じく障がいを持ったバックの実の娘の姿が、投影されているという。


私が子どものとき、この作品のどこに感動したのだろうかと思う。

一種の畏怖のようなもの、

物語のなかで、見知らぬ老若男女に出会って、自分はこれからしっかり生きていけるのだろうか、

などという意識の目覚めのようなものとも、出会っていたのかもしれない。

残念なことに、その感動のまま半世紀をしっかり生きて来たとはいい難い。


パール・バックはこの作品で、ピューリッツァ賞(1932年)と、

ノーベル文学賞(1938年)を受賞している。