遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

銀の匙/中 勘助

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銀の匙 中 勘助 (岩波文庫)

なかなか開かなかった茶箪笥の抽匣(ひきだし)からみつけた銀の匙.伯母さんの無限の愛情に包まれて過ごした日々.少年時代の思い出を中勘助(1885-1965)が自伝風に綴ったこの作品には,子ども自身の感情世界が,子どもが感じ体験したままに素直に描き出されている.漱石が未曾有の秀作として絶賛した名作.(解説=和辻哲郎

7年ほど前に購入しそのまま書棚に埋もれていたのをようやく手に取り、
中勘助の「銀の匙(さじ)」を読了した。

この作品は前篇と後篇に分かれていて、
漱石の絶賛のなか前篇が発表されたのは、大正元年で勘助27歳のときである、

後篇はその2年後に発表されている。
勘助の自伝的小説であり、文庫の80頁目で主人公は小学校へ入学し、
後篇でようやく16、7歳の年頃なのである。

身体ともに虚弱児であった主人公は、病気がちだった母に代わり、伯母さんに育てられる。
主人公は実に手のかかる子どもであり、癇癪もちで臆病で泣き虫で、
このような「腫れ物に触るように」接しなければならない人物に私が出会うのは、
物語のなかでさえ私にははじめてのことである。

そんな大変な幼子だったことを、その張本人が回想しているところが不思議であるが、
育ての親である伯母さんとの思い出が、読む者の心を捉えてはなさないのである。

主人公は東京は神田の生まれで、後に家族ごと小石川の高台に引っ越す。
まだ自然がそちこちにいっぱいだった明治時代の東京の暮らしが、実に興味深い。

私も子ども心によくおぼえている昭和30年代は、
自然や暮らしや習慣や、ことに人の心はまだ明治の名残があった時代で、
この物語に出てくる明治の東京は、田舎育ちの私でも実に懐かしく感じることができる。

主人公の家庭は、乳母まで抱えるかなりな上流階級にあり、
庶民とは比較にはならないほどの、変化と多様性に富んだ暮らし方をしている。

しかし、それらを割り引いても、明るくて物怖じしないひょうきんな伯母さんと、
とんでもなく他人を煩わせるくせに唱歌や風月を愛で好奇心と感受性の強い主人公の、
変化と多様性のある日々の暮らし方に、なんとも感心してしまう。

主人公と対極をなす文武両道に秀でた兄は、
歌を歌ったり貝殻を集めたりする平和な弟を絶対に認めようとしない。
兄は、典型的なさむらいニッポンの好戦的男子で、わが国を作ってきた典型的男子がここにいる。
主人公はこの兄が嫌いであり、同じく「孝行」を押し付ける修身の授業も大嫌いであった。

反対に、主人公の周りにいた女たちが実に印象的であった。
伯母さんや幼馴染みのお国ちゃん、お蕙(けい)ちゃん、
夏休みの友人の別荘に偶然居合わせた京都に嫁いだ友人の姉など、
彼女たちと主人公の心のふれあいが、美しくて切なくて、私も主人公のように心が震える。
みな、主人公の初恋の人といってもおかしくないのである。

17歳の主人公は夏山で道に迷い、深山で一人きりではない幸福感を木霊(こだま)に見出す。

                        そのほんの覘(のぞ)いてみるほどの
  すきまから山また山が赤く、うす赤く、紫に、ほの紫に雲につらなって、折り重り畳み
  重りはてしもなくつづいてるのがみえる。私は一種の恐怖をまじえた讃美と歓喜にみち
  て声高くうたいはじめた。木霊! それはちょうど山のかげに誰かがかくれていてあと
  をつくようにはっきりとくりかえす。 (略)                私は
  いつものとおりそういえばそんなわかりきったことに原始的な嬉しさをおぼえて幸福な
  半日を歌いくらしたのち夏の日の海に沈むころようやく譲葉の垣のなかへ帰った。

岩波書店の企画「読者が選んだ〈私の好きな岩波文庫100〉」では、
「こころ」「坊ちゃん」につづく第3位に「銀の匙」がランクインされている。