遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

帝国軍人よ!知らぬ存ぜぬは許しません

イメージ 1

昔、フジテレビの「小川宏ショー」(1965年5月3日から1982年3月31日)に、「ご存知ですかこの人を」という名物コーナーがあった。

毎週一回著名ゲストを迎え、そのゲストと縁のあった恩師やお世話になった人など数人をスタジオに招いて「サプライズなご対面」をさせて旧交を温めるというコーナーだった。

ある日のゲストは俳優の多々良純(1917 - 2006)だった。ある男性の番になって対面した多々良は「さあ、この人は存じません」と思い出すことなく、生放送のスタジオは何とも気まずい空気が漂ったまま、その日の「ご存知ですかこの人を」コーナーは終わってしまった。

その男性は、多々良純の軍隊時代の上官だった。放送当時の多々良は50歳前後だったと思うが、スタッフは絶対忘れるはずのないご対面相手を用意したはずなのに、その男性の素性を明かしたにもかかわらず多々良は「知らない」を通した。

これは、50年以上前のことで、当時私は小学生か中学生だったと思うが、多々良純が忘れたふりをして元上官を生放送番組で復讐しているのだと悟った。どうしても、「その節はお世話になりました」と言いたくなかったのだろう、きっと殴られたりいじめられたんだろうなと子ども心に私は分かっていた。

ドキュメンタリー映画ゆきゆきて、神軍」(1987)では、奥崎謙三が軍隊時代の上官を訪ね歩いて、軍隊内で起こったある事件について真相を究明しようとした。真相を知っているはずなのに言葉を濁す元上官に、「知らぬ存ぜぬは許しません」とばかりに奥崎は鉄拳制裁を加えたり暴力をふるうのだった。

ヘンリー・クレイさんのツイッターには、お偉いさんでクズのような元帝国軍人が紹介されている。
ヘンリー・クレイ @henry_clay2017 
終戦の日にちなんで誇り高き帝国軍軍人を紹介します
富永恭次→陸軍特攻の生みの親。部下を残して遁走
木村兵太郎ビルマに部下を残して愛人を連れて遁走
福留繁→ゲリラの捕虜となり機密文書を奪われる
澄田らい四郎→部下を国民党軍に売って自分だけ帰国
寺内寿一郎→愛人を連れて敵前逃亡


最後に、小説家の木村友祐氏のツイッターで、小林カツ代さんの「終戦記念日によせて」という講演録が紹介されている。これもまた、元上官への小さな復讐劇なのであった。

木村友祐 @kimuneill
小林カツ代さんの、終戦記念日によせた講演要旨。戦地で人を殺せず、殴られ、笑われた父。その父が毎年欠かさず戦友会に行く理由は、戦後に偉くなった上官の隣りに座り、上官の非道ぶりを思い出させるためだった。これはぜひ読んで。


◇今日のキッチンスタジオだより 

終戦記念日によせて

小林カツ代「キッチンの窓から見えるもの」

2004年8月28日須坂市メセナホールにて 第6回信州岩波講座での講演要旨
2004年8月31日 信濃毎日新聞に掲載

《キッチンから戦争反対》
私が戦争を体験したのは、まだ小さい頃のことだった。ある日、空襲警報が鳴り、母に手を引かれて逃げ回った。焼夷弾で焼けた死体をたくさん見たけれど、幼かったのでそれほど深く何かを感じることもなく大人になった。
父は生粋の大阪の商人で、よく笑い話をする面白い人だった。けれども、毎晩、睡眠薬を飲んでいた。そして、お酒を飲むと、戦争中に中国で体験したことを話した。

「お父ちゃんは気が弱くて一人も殺せなかった」。上官の命令に背いて、どれだけ殴られたか、日本軍がどんなに残酷なことをしたか…。父は泣きながら話していた。

まるで「遊び」のように現地の人を殺す日本兵もいたそうだ。ギョーザや肉饅頭の作り方を教わり、仲良くしていた人たちが住む村を焼き討ちしろと命令が下りた時、父は「あそこはやめてくれ。村人を逃がしてからにしてくれ」と頼んだ。だが、父のその姿を見て笑う人たちもいたという。

同じ部隊に、ことに残酷な上官がいた。命乞いをする人に銃剣を突きつけ、妊婦や子どもを殺すその上官を、父は止められなかった。それは悪夢だった。生涯、睡眠薬を手放せなくなった父は「これくらい何でもない。殺されたり拷問にかけられた人たちにどうお詫びしたらいいか」と語っていた。

でも、子どもの頃の私は、父からそんな話を聞かされるのが嫌で仕方なかった。短大に入った頃は、ちょうど社交ダンスや歌声喫茶が全盛で、友達と遊んでばかり。自由を謳歌していた。

戦後、父は毎年、戦友会に出かけた。ガンになり死期が迫っても、やせた体に背広を着て、出かけようとした。私は、「戦争はいかん」と言いながら欠かさず戦友会に行く父を許せず、「なぜ行くのか」と問いただした。すると父は、初めてその理由を話してくれた。

残酷な行為をしたあの上官は、戦後 成功を収め、大金持ちになった。「あんな残忍なことをして、よく軍法会議にかけられなかったな」と陰口をたたいていた人たちも、成功者と見るや、すり寄っていった。戦友会では、その人を一番いい席に座らせ、昔のことなど誰も口にしなくなった。

けれども、父は許せなかった。その人の隣に座って「忘れへんのか。夢に出えへんのか。よくあんな残酷な目にあわせたな」ーそう毎年言い続けるのだ、と父は言った。「中国の人に代わって、罰のつもりで言う。自分への罰でもある」と。

ノンポリだった私は、その言葉を聞いて雷に打たれたような気持ちになった。父の意思を継いで、2度と戦争はしない、してはいけないと決心した。

父も、その上官も、もう亡くなった。私は料理研究家になってよかったと思っている。切った野菜のくずから芽が出てくる。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる精気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気づくことができた。

だから私は、キッチンから戦争に反対していく。原っぱは、きれいな公園などしないで、そのまま残して欲しい。諫早湾も、そして憲法も、そのままにしておいてほしいと私は思う。