遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

戦争孤児“駅の子”の闘い/NHKスペシャル

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NHKスペシャル「“駅の子”の闘い~語り始めた戦争孤児~」を見る。

靖国神社には戦地で戦死した英霊が祀られ、戦死の悲劇を共有した家族たちは後々まで国家で手厚く保護されている。

一方、空襲などで亡くなったいわば犬死した一般市民の犠牲者に補償はなく、そのためにまったく身寄りがなくなった子どもたちは、親せきに預けられたりした。しかし、「火垂るの墓」でも描かれたように、いままでかわいがってくれた親せきからの冷たい仕打ちに耐えかね、戦争孤児たちはその家を出て放浪する。

その生き残りの戦争孤児たちが、平成最後の年にあの戦争を語るドキュメンタリーだった。

彼ら孤児は、最終的には雨をしのげる大きな空間のある駅をねぐらにして、「駅の子」として仲間と寄り添って暮らしていた。戦後2年ほど経ってようやく彼らを受け入れる孤児院ができたが、そこは不自由な牢獄のような生活だったようで、やがて彼らはまた駅に戻り、そこで息絶えるのだった。それも「火垂るの墓」の世界である。

存命で番組に出演された「駅の子」だった男女は、戦争を憎み、戦争を始めた者を憎み、それを支持したメディアや世間を憎み、そのために孤児になった自分たちを一切だれもが顧みなかったことに憤りを感じている男女であった。その憤りや恨みや痛みは、この番組を見た人に等しく感じ取れたことと思う。

ちょうど先日から山口県で2歳の男児が行方不明になって大騒ぎになったが、戦後に駅の通路で夜露をしのぐ死にそうな孤児を見ても、市民はまったく無反応だったという。むしろ差別的な扱いを受けたという。戦争孤児なのに差別的な扱いを受けたことに、世間を許せなかったと振り返る人もいた。

ある出演者のかけがえのない親友は、絶望から列車に身を投げたという。その後、なんとか市民生活にもどることができて家庭も持った彼らは、あの苦しみがあったからこそ今があると異口同音に語るのだった。ある女性は、結婚をして2児を授かったが、夫には最後まで「駅の子」だったことを隠し通したという。

かつて、日本人は親が自然死しただけでもその子を「片親」だということで差別した時代があった。差別できる理由を見つけて意味づけて、なにかと差別する卑しい差別的な人間は間違いなく少なからず存在するが、自分の生活が精一杯で余裕がない人間がそれ以上に存在していることも事実である。

それは承知の上で、「ほんとうに欲しかったのは ぬくもりです」と語る「駅の子」だった老人の声に目頭が熱くなった。

それにしても、この時期のNHKスペシャルの数々は、明らかに制作側の反戦平和の思いが通底していて、いい仕事をしていると評価したい。