遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

永六輔さんありがとうございました

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永六輔さんが亡くなった。

画像は、永六輔黒柳徹子。この二人がテレビ黎明期の申し子であり、私が生まれて以来二人は常に同じポジションに居たことになる。

淀川長治が主宰していた「映画の友の会」という集まりがあった。定例で月1回くらいの開催だったのだろうか、私が高校生の頃にも映画雑誌の淀川長治の行動記録にも「映画友の会」で、最新作や名作映画の論評をしていたことが記載されていた。それからさかのぼること20年、1948年ころのもっとも初期のメンバーが永六輔だったと彼自身の口から後年知った。

ちょうどそのころから永少年はラジオ番組にネタを投稿し、やがて放送作家になり、自作のテレビ番組「夢で逢いましょう」に出演する若手歌手の歌を作詞する。坂本九の「上を向いて歩こう」、北島三郎の「帰ろかな」、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」、ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」がその代表曲である。

今で言えば、秋元康の活動がそれと同じか。永六輔は60年前にすでにそのような活動をしていた。もっと品よく清くスマートに。

放送作家で作詞家なら裏方なのだが、彼は積極的にテレビ番組に出演して、小学生の私の耳にも心にも響くことばでブラウン管の向こうから語りかけてくれた。彼にはすでに、テレビを使って言葉や歌によるメッセージを視聴者に送り届けるための上質なリテラシーを持っていた。

そんな永六輔に、すでにテレビの面白さを教え込まれていた高校生の私は、彼が始めた旅番組「遠くへ行きたい」が、ことのほか好きな番組だった。永六輔は日本各地を旅して、映像と彼の語りで人の営みやたたずまいを紹介してくれた。そういった永六輔的世界がとてもとても好きだった。彼のおかげで人生が楽しくなったことは疑いようがない。
その後その「的世界」は、伊丹十三渡辺文雄藤田弓子などに継承され、いまに至るまで楽しまれている(はず)。

生身の永六輔とは2回会っていて、最初は新大阪のホームの地下の食堂街で、お昼時に店を品定めする彼とすれ違った。目と目が合って会釈したと思うが、心の中では「師匠!」と深々とご挨拶していた。2度目は、中村八大&永六輔の二人だけの小さなコンサートに出かけたとき。内容はよく覚えていないが、楽しいコンサートだった。途中で壇上に促されて観客に紹介されたのがおすぎ(ピーコだったかも)。テレビではあんなにうるさいのに、「なんと上品な!」と思った。以降、おすぎの映画評の信頼度は、私のなかではかなり上がったのだった。

私は淀川さんに映画の楽しさを、永さんと八大さんに音楽の楽しさを教えてもらい、彼らと彼らの結びつきのある人たちに人生の楽しさを教えてもらった。

「遠くへ行きたい」がこんなに悲しく響く日が訪れようとは。謹んで永六輔さんのご冥福を祈ります。ありがとうございました、合掌。