遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

火花/又吉直樹

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「火花」が芥川候補賞になったので、単行本は買わずに受賞した後に月刊「文藝春秋(芥川賞作品掲載号)」をAmazonで予約して手に入れた。
選考委員の選評がことのほか興味があり、受賞作はきちんと読まなかったりする方が多い。1976年、中上健次が「岬」で受賞したときはきちんと読んだ。読み始めたら作品に掴まえられて逃げられなかったといった方が正確だ。若い私にはいろんな意味でショッキングな作品だった。

さて、又吉の作品「火花」は、ショッキングでもセンセーショナルでもない良品だった。彼は、本を読んでいるお笑い芸人として、いまはなくなってしまったNHKの「週刊ブックレビュー」のゲストや時々の出演者として認識していた。彼の芸は知らなかったけれど。
「文学界」に初掲載されて単行本にもなったからこの小説は、今年前半期の出版界の話題作でありベストセラーでもあった。なので彼の作品は「無印」良品ではなかったが、選考委員の作家たちのシビアな選評を読むと、受賞には芸人が書いたベストセラーというアドバンテージは関係なかったと思う。

売れない同士の芸人が主人公の「火花」、後輩芸人の一人称で語られる先輩芸人との交流を描がいた本流が本作をゆっくり流れる。関西芸人同士の会話は、「どうでもいいじゃん」などという日本列島共通語ではなく「そんなんどうでもよろしいやん」といった関西弁で表現されている。

人の価値の半分は、面白いかどうかで決まる大阪界隈では、二人の言葉の交流はまるで掛け合い漫才。しかし、ちぐはぐでシュールな掛け合いなのが面白い。こういう面白さは、著者又吉直樹のネタ本から容易に拾ってこれると想像できる。もうネタのストックは尽きただろうと心配するが、ネタ満載のことばの交流が楽しめた。

人が持つ価値の人類共通の部分(大阪では残り半分の価値)は、一所懸命良い人なのかという価値である。社会的地位、大きな家、よく走る車、高価なバッグや宝石や腕時計、整った容姿、高い偏差値などを持っていても全然楽しくないのである。一所懸命良い人との楽しい時間があればそれでいいじゃん、いや「そんなんどうでもよろしいやん」となるのである。
地球上の大部分の人間の「基本部分」は、面白くてまじめでいい人たちなのだということを、本書の読み手には気付いてもらいたと思う。時々「基本部分」を外れる部品を持っていても排除したり駆除してはいけないのである。

ネットで誹謗中傷する人たちのことを、主人公に「彼らはゆっくり死んでいくような自殺行為をはたらいているから、誰かが救済してやらねば」と語らせるところなど、又吉はなかなか大きい人だと感心した。この大きさに、やっかむ先輩芸人がたくさんいるだろうとも思うが、でも、その大きさが、芸人又吉の面白くないところでもあるようにも思う。人間はいろんな部品でできている。

本書のどこで涙するかは、読み手を構成する部品に左右される。私は、最後の熱海の花火大会のシーンだった。

本屋さんの女性店員のことば、「店でのお客さんの一番多い質問は『トイレはどこ?』だったのに、いまは『火花はどこ?』になった!」。
本書が売れに売れて、本屋さんが潤っていると聞く、今年の救世主だという。

さらに、多くの人に読んでもらいたい小説である。