遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

どですかでん/黒澤明

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天皇と呼ばれた黒澤明は、「トラ・トラ・トラ!」の監督降板という有名なトラブルがあり、「どですかでん」は、「赤ひげ」以来実に5年ぶりのメガホンであった。原作は山本周五郎の「季節のない街」。これを、脚本トロイカ、黒澤、小国英雄橋本忍の最強パワーでけん引する。

いつまでも天皇であり続けることが難しいと悟った黒澤は、この初のカラー作品の製作費を極力抑えた作品に仕上げたという。貧しい人たちが住むバラック街のセットは、時代劇のような製作費はかからない。東京の広大なゴミ焼却場に、バラックのセットを建てわずか28日間で撮影を終えたという。
関係者の話では、いわゆる「天気待ち」などなく、影ができなかったら地面に墨汁で影を作ったという。撮影はスムーズに進行し、監督が怒鳴ることはなく、ニコニコとしてどんどんOKシーンが生まれていったという。
撮影期間が1年という「七人の侍」や、身代金の受け渡し場面の撮影で二階建ての民家がじゃまだと平屋に縮めてしまった「天国と地獄」などとは別次元の話である。

そこまで、製作費を絞って完成させた映画であったが、興行成績は振るわなかった。「トラ・トラ・トラ!」の降板と「どですかでん」の成績不振の心痛で、黒澤は自殺未遂をするまで追い詰められた。
当時、高校生だった私は、黒澤の「どですかでん」はもちろんのこと、彼のどの作品もまだ未見だったが、自殺未遂報道はよく憶えている。そんな有名な監督なんや、と思っていた程度。そして私は、山村総が山本五十六を演じた「トラ・トラ・トラ!」は、どこかの二番館の大画面で鑑賞した。

で、このたび「どですかでん」を始めて鑑賞。初公開から45年経っている。
高校生の私が見たらどうだったろうと思う。誰に向けた映画なのかよく解らない。万人が手を叩いて喝采する、「七人の侍」「椿三十郎」「用心棒」や、深く考えさせられるヒューマンドラマ「赤ひげ」「生きる」「天国と地獄」などとは一線を画す。「羅生門」「白痴」「どん底」などと同列に並ぶ文学を下敷きにした文芸作品である。共通するところは、メリハリがなく退屈になりがちな作品で、血沸き肉躍る作品という期待は裏切っている。なので、興行収入は低調。

どですかでん」に登場する、貧しいバラック街に住む多くの老若男女は、すべてオムニバス映画の主人公のように入れ代わり立ち代わり登場する。ワンシーンにだけ登場する友情出演みたいな女優俳優(荒木道子塩沢とき三井弘次)もいて、ギャラはきちんと払われたのだろうかと思ってしまうキャスティングである。これ以上ないというほど最下層の人たちの貧しい暮らしと、下を向いたり上を仰いだり外を眺めたりした生き方をカラフルに描いている。

芥川比呂志は、まったくまばたきをしない男を演じている。セリフもない。一人暮らしのところへ、妻と思われる奈良岡朋子が合いにやってきて、しばらく一緒に暮らすが、妻は夫には徹底的に無視をされる。奈良岡は、まだ私を許してくださらないのと許しを請い涙する。この二人はどこからきて何をした人なのか、私たちは想像をめぐらすほかはない。

芥川比呂志の家族のほかに、頭師佳孝三波伸介伴淳三郎田中邦衛三谷昇松村達雄らの家族が描かれる。それぞれの夫婦や親子の複雑な事情が、描かれる。弱い人たちばかりで強い人は誰もいない。60歳を超えていまこの作品に接してみると、私が今まで直接的間接的に出会ったことのある等身大の人たちばかりである。否、ある時々の自分自身かもしれない。いずれにしろ、抱擁したくなる懐かしさである。

武満徹の音楽も印象的で、心に残る。


監督 黒澤明
原作 山本周五郎『季節のない街』
音楽 武満徹
出演者
楠侑子
吉村実子
井川比佐志
沖山秀子
根岸明美
三井弘次
谷村昌彦

公開 1970年10月31日 上映時間 126分