遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

わが青春に悔なし/黒澤明

イメージ 1

わが青春に悔なし

監督 黒澤明
出演者 原節子大河内傳次郎、藤田進
公開 1946年10月29日  上映時間 110分

黒澤明の監督作品としては5作目「わが青春に悔なし」のご紹介。
本作は、黒澤作品としては戦後の初公開作品(「虎の尾を踏む男達」は、検閲のため1952年に初公開)となった。

未見の映画作品情報とは、極力遠い位置に居ようとしているのだが、本作の一部の映像はよく知っていた。その映像は、小川の飛び石を渡ろうとする原節子を二人の学生(藤田進と河野秋武)が手を差し伸べようとするシーン。それに続くお花畑のシーン。これらのシーンとタイトルと原節子のイメージから、私は本作は淡い恋を描いた青春映画なのだと今日まで思っていた。こんなに激しい人道的な映画だとは思いもしなかった。

この映画のベースになったのは、「滝川・京大事件」(昭和8年)と「ゾルゲ事件」(昭和16年)で、京大の滝川教授のモデルを大河内傳次郎(八木原教授)が演じ、ゾルゲ事件で死刑になった尾崎秀実のモデルを藤田進(野毛隆吉)が演じる。二つの大きな事件(直接的な関連性はない)と同期をとられて、作品に描かれた時代は、昭和初期の満州事変から戦中、終戦までの十数年にわたる。

八木原教授の一人娘の原節子(八木原幸枝)は、父親の教え子の野毛に激しい思いを寄せる。野毛は中国に渡った後、帰国して東京で反戦平和活動に打ち込み、精神的にも物理的にも、幸枝とは遠くかけ離れた生活をしている。幸枝は彼を追って京都から東京へ生活を移すことを決心する。

娘「何もかも新しく生きていきたい」
父「世の中は、お前が考えているようなそんな生やさしいもんじゃないのだよ」
娘「わかってます。ただ、今の私なんか、生きてないのも同じことだと思うんです。せめて、世の中に入って、生きるということはどんなことか自分で確かめてみたいんです」
父「そこまで考えたのならいいだろう。自分で自分の生きる道を切り開いていくことは、尊いことだ。しかし、自分の行いに対してはあくまで責任を取らにゃあいかんぞ。自由は闘い取るべきものであり、その裏には苦しい犠牲と責任があることを、忘れちゃいかん」

娘の原節子の上京を押しとどめようとし、しかし最後には上京を認める父大河内傳次郎

幸枝は野毛の働いている出版社を見つけ、そのオフィスのあるビルに頻繁に訪れる。ビルの玄関の大きな窓越しに、野毛に会えるかもしれないと雨にも負けず風にも負けず足繁く訪ねてくる麗しい原節子を、黒澤はモード雑誌のように撮影する。そのシーンは、チャップリン無声映画のように美しい。

しかし、美しい原節子はここまでで、映画の後半は、幸枝は「生やさしくはない世の中を」「生きるということはどんなことか」を強烈に思い知ることになる。
詳しいストーリーは書かないが、訳あって農村で野毛の母親(杉村春子)と暮らすようになった幸枝は、京都や東京にいた幸枝とは別人のように変身する。本作の原節子は、小津作品の原節子とは別人なのである。こういう魔性を感じる原節子の方が私には魅力的に感じる。また、シーンごとにこの女優の見え方が違うのはなぜなんだろうかと思う。

戦中に監督デビューした黒澤明は、終戦後、待ってましたとばかりに、戦争へ突き進んだ時代への痛烈な批判を自らの作品に込めた。彼の平和を願う社会性は、死ぬまで変わることはなかった。