遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

神聖喜劇〈第1巻〉/大西巨人

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神聖喜劇〈第1巻〉大西 巨人   (光文社文庫

内容
一九四二年一月、対馬要塞の重砲兵聯隊に補充兵役入隊兵百余名が到着した。陸軍二等兵・東堂太郎もその中の一人。「世界は真剣に生きるに値しない」と思い定める虚無主義者である。厳寒の屯営内で、内務班長・大前田軍曹らによる過酷な“新兵教育”が始まる。そして、超人的な記憶力を駆使した東堂二等兵の壮大な闘いも開始された。―不滅の文学巨篇、登場。

著者略歴
大西/巨人
1919(大正8)年福岡市に生まれる。九大法学部中退。新聞社勤務を経て、召集により対馬要塞重砲兵聯隊に入隊。45年に復員後は福岡市で『文化展望』を編集。47年『近代文学』同人。52年上京して「新日本文学」常任中央委員となる。72年同会を退会。戦争・政治・差別問題を中心に執筆活動を行っている。

大西巨人の分身たる主人公東堂二等兵は、真珠湾攻撃があった翌月の1942年1月に、対馬行きの船に乗せられていた。対馬の要塞の重砲兵としての新兵訓練が彼を待っていた。その時の彼の心境は、作品で以下のように示されていた。

《私の当代の思想の主要な一断面はこれを要約すれば次のようであった。世界は真剣に生きるに値しない(本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい) それは若い傲岸な自我が追いつめられて立てた主観的な定位(テーゼ)である。人生と社会とにたいする虚無的な表象がそこにあった。時代にゆすぶられ投げ出された(と考えた)白面の孤独な若者は、国家および社会の現実とその進行方向を決して肯定せず、しかもその変革の可能をどこにも発見することができなかった(自己については無力を、単数および複数の他者については絶望を、発見せざるを得なかった)。
 おそらくそれは、虚無主義(ニヒリズム)の有力な一基盤である。私は、そういう「主観的な定立」を抱いてそれに縋(すが)りついた。そして私の生活は、荒んだ。 すでにして世界・人生が無意味であり無価値であるからには、戦争戦火戦闘を恐れる理由は私になかった。そして戦場は「滑稽で悲惨な」と私が呼んだ私の生に終止符を打つ役を果たすであろう。》

夢も希望もなくなった若者として、軍隊に連れられてきた東堂は、九州帝大法学部を中退したいわゆる「学校出」と称され良くも悪くも特別視される新兵であった。入隊時の身体検査をした軍医が、東堂と同じ中学・高校・大学の出身であり、東堂はその軍医の即日帰郷にしてやろうかという申し出をことわる。

東堂は、誰のためでもなく自分のために軍隊で生涯を短く全うしようとするのか、とはいえ、生まれて20余年の間に父母から学んだ武士の魂や自ら会得した博識をもって国家の脅威にぶつけようとするのか。目下の脅威は、その名前から天保水滸伝の侠客をイメージする武闘派の班長大前田文七軍曹である。大前田は中国帰りの30歳を過ぎたばかりの百戦錬磨の指揮官である。東堂は、大前田をはじめとする下士官や、その上官の将校や、あるいは一兵卒である上等兵一等兵や同じ階級の二等兵を観察し、まるで「喜劇」のような彼らの一挙手一頭足を語る。また持ち前の驚愕すべき博識と洞察と旺盛な想像力で、彼らの来し方を考察し読者に事細かに語る。

また東堂は、軍規や軍法などを将校から借り受け、短時間に深く読み込み記憶し、それに則った営みがなされているのかも逐一観察する。それにしても、その非効率な不条理なルールたるや、想像を絶するほどばかげたもので、このようなルールの残骸はいまも政治や企業や学校や部活や私的な小集団にも存在している。

ニヒリズムに包まれた主人公かと思いきや、東堂二等兵は、無責任・無気力・無感動とは程遠く、軍隊内の差別すなわち軍の階級・学歴・職業・出自・貴賎による差別を徹底的に憎む自由人としての矜持をもって軍隊を喝破する。

《累累たる責任不存在の体系という日本軍隊の表象は、あるいはそれによって私が年来の私の虚無主義に最後の仕上げを施してもよかろう好個の材料であるはずであった。かえって私は、そのような軍隊の表象を前にして、私の虚無主義がおもむろにある何物かへと還元し、または変貌し、または解体しつつあるらしいことを――私の虚無主義が次第に日日の現実における私の思考ならびに行動によって裏切られつつあるらしいことを――不安と疑いのうちに知覚していた。》

第1巻に詳らかにされた軍隊は、兵隊になったばかりの新兵のごく初期の聯隊のようすである。「神聖喜劇」は1980年に光文社から第5巻まで出版され、その後文春文庫、ちくま文庫と版権は移転し、現在は光文社文庫から出版されている。

対馬にやって来たばかりの新兵たちは、これから(地理的に精神的に)どこへ行こうとするのか、以降の巻に続くのである。