遊びをせんとや生まれけむ

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。夏目漱石

大人は判ってくれない/フランソワ・トリュフォー

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大人は判ってくれない Les Quatre Cents Coups
日本公開 1960年3月17日  上映時間 99分

「大人は判ってくれない」、10月に録画していたのをようやく鑑賞。フランソワ・トリュフォーの映画を観るのは「アメリカの夜」以来40年ぶりになるか。「アメリカの夜」に主演していたジャン=ピエール・レオと、「大人は判ってくれない」の主人公の少年が同一人物であることを今回初めて知った。(子供のレオの方が断然素晴らしい。)

レオ演じる少年は、トリュフォー自身だという。映画の中で、家族3人で映画を見に行くシーンや、少年仲間と二人で映画館に出かけるシーンがあった。母親のセリフに、少年が映画好きだというくだりもあり、私は映画を観ている途中で、これはトリュフォーの自伝的映画なのかなと気付かされた。

主に「未知との遭遇」で演じた科学者を通して晩年のトリュフォーを知っている私は、彼は裕福な家庭に育ったインテリだと思い込んでいた。でも、それは単なる勝手な想像でしかなく、彼はこの作品の主人公の頬をぶたれて大きくなった悲しい少年であった。この作品の原題は「400回の殴打」、トリュフォーが頬や頭をぶたれて大きくなったことを象徴している。

とにかく主人公のやんちゃな少年を、ほぼ野放し状態で動かして、それをカメラで追いかけて撮影したような大らかさがこの作品の根底にある。周辺の子どもたちや大人たちも、演技をしているような感じがしないところが、ヌーベルヴァーグなのだと感じさせる。この作品のすぐ後に発表された、ゴダールの「勝手にしやがれ」(原案はトリュフォー)を連想した。

また、パリの街を自由奔放にカメラは捉えていて、楽しい。オープニングの車の中からのさまざまな角度で撮影したエッフェル塔。高い位置からロングで撮影した少年たちの隊列からの逃避行。主人公と親友の少年と同じ目の高さで街角を捉えるカメラ。とりわけ、人形劇を目を輝かせて見入るおおぜいの幼児たちの表情を真正面からとらえた演出なしの映像と、ラストシーン近くに少年とともに長い間走るカメラ映像は、とても印象に残る素晴らしいものだった。

この作品が実質デビュー作のトリュフォー監督、まだ27歳の才能はどのように形成されたが、この作品に描かれているのかもしれない。貧しくてもさびしくても夢を見られる環境にあった自身を振り返って懐かしむのだろうか。

名作のご多分に漏れず、音楽も秀逸である。

(画像最下段の一番右は、この作品の野口久光さんが描いた日本のポスター。その隣の画像は、撮影風景のスチールで、左端がトリュフォー監督。)